人間も労働も特別じゃない

人間を他の生物とは違うものと捉えたり、労働を他の財・サービスとは違うと考えたりする人が多いのはどうしてだろうか。

人間はどうして労働するのか (内田樹の研究室)

動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。

ほとんどの動物が食料の作り置きをしないのは単にできないからだ。できるならする。例えばリスは食料を地中に埋めるし、冬眠する動物は脂肪を蓄える。

狼は獲物を群れに持ち帰り、狩りに参加しなかった個体にも食料を与える。常に同じ個体が群れに出るのでない限りこれは時間軸を通じた交換だ。その場での交換でないのは、貨幣が存在しないからだ。貨幣がなければ価値の一致する取引を一時点で行うのは困難だ。貨幣経済成立以前の人間でも変わらない。

「労働」とは生物学的に必要である以上のものを環境から取り出す活動のことであり、そういう余計なことをするのは人間だけである。

これも同じだ。生物学的に必要な以上の生産を行う動物がいないようにみえるのは、大抵の動物にそれができないからだ。牧草地にやぎを大量に放てば牧草はなくなり、やぎの数は減る。結果的に牧草とやぎの量にバランスがとれるが、これはやぎが必要以上の食事を行わないからではない。むしろ必要以上のものを環境から取り出した結果だ。

人間もまた例外ではない。産業革命以前の経済はマルサス経済であり、技術発展は人口増によって打ち消された。人間だけが環境から余分な生産を行っているように見えるのは生産性が高く必要以上の生産が行えるからに過ぎない。ちなみにマルクスが資本論でマルサスを辛辣に批判しており、人間を特別視する見方と労働を特別視する見方には共通するものがあるのだろう。

どうして人間だけがそんなことをするのか。それは「贈与する」ためである。ほかに理由は見当たらない。

「贈与する」生物は人間だけではない。ほかに見当たらないのはよく見てないからだ。他の例で考えれば分かる。多くの個体が肥満な生物は人間だけだが、人間が肥満になるのはなぜか。それは余分な栄養を溜め込むのが自然界で有利だからだ。多くの動物が脂肪を使って栄養を貯蔵する。人間だけが太るのは単にいくらでも食料が手に入るからであって、人間には特別の太る「理由」があるからではない。

労働も同じだ。単に生存に必要なものしか欲しがらない人間は生存競争に勝ち残れない。よってほとんどの人間は必要以上のものを欲する欲望を持っている。現代ではそんな欲望がなくなても子孫を残せるだろうが、人間の性質は百年やそこらで変わらない。

「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」と同レベルの類的宿命であり、人間の人間性を形成する根源的な営みである。

原文ではこの命題に基づき演繹的に働くことについて論じているが、そもそもの議論が間違っているのでこれ以上論じる意味はないだろう。「本質」とか「宿命」とか「根源的営み」とか言えば結論が正当化されるわけではない。

経済学者が誰も言わないので、私が代わりに言っているのである。

そりゃそうだ。そんなことを言われても困る。

追記

  • 「それを踏まえても人間は他の生物とは違うし、労働も他の財・サービスとは色々な意味で違いますよ?」:それは内田さんが考えるべきことで、私のここでの主張はこれの議論は前提がおかしいのでどうしようもないということです。色々な意味で違う点を正しく把握することが必要だと思います。

終身雇用はなくなる

日本の雇用についてのポストから:

終身雇用はなぜなくならないか – Chikirinの日記

(1)新卒採用
(2)年功序列
(3)終身雇用

これらが日本型雇用だという。何故これらがなくならないかについて以下のように説明している:

大企業は、解雇規制があるからイヤイヤ“日本的雇用”を維持しているのではなく、それが自分達にとって得だと思える強固な理由があるからこそ、それを維持しているのだ。

これは市場の仕組みを考えれば当然だろう。もし解雇規制が原因で合理性のない雇用慣習を採用しているのであれば、解雇規制が問題にならない新規企業に駆逐されるはずだ

終身雇用の主なメリットは二種類ある:

  1. 社員のリスクを雇用主が負担できる
  2. 社員が雇用主に固有の人的投資をできる

1は社員の方がリスク回避的であるため、会社がそれをカバーできるなら給料を節約できるからだ(これはWin-Winだ)。会社員にとって解雇のコストが高いことを考えれば妥当だろう。

2は「“仕事のやり方”ではなく、“我が社のやり方”を知っている社員が望ましい」という部分と重なる。そういった企業固有の知識を習得するのは雇用が保証されていない限り割に合わない。

それに対して終身雇用最大のデメリットはまさに解雇が難しいことだ。解雇という脅しなしに社員を働かせなければならない。ただ、これは成果主義が成立しないということではない。将来の処遇を使ってそれなりのインセンティブを与えることは可能だ。

このように長年続いてきた終身雇用制度にはそれなりの合理性があるでなければそんなシステムが維持されるわけはない。しかし、終身雇用が続く、最も大きな原因は労働市場の硬直性だ:

今や日本の労働市場では中途人材の新規獲得コストが異常に高くなり(=高品質人材の中途採用市場が整備されないままとなり)、企業は今更方針を変えられなくなってしまっている。

上の部分がそれを表している。長年、新卒採用・終身雇用に依存してきた社会には健全な労働市場が育たない。終身雇用が当たり前だと途中で労働市場でる人間は何か問題があるという悪いシグナルを送ってしまう。そのため中途労働市場が機能せず、新卒採用・終身雇用という制度はさらに強化されてしまう。これを何十年も続けた結果が履歴書が気になってブラック企業を辞めることもできない社会だ

しかし、この一見強固に見えるサイクルにも解れが見え始めた。この悪循環は中途の労働者が悪いシグナルをもっているというのが原因だ。リストラをする企業や破産する企業が出てくれば、悪いシグナルは減少し、逆のサイクルがまわり始める。中途労働市場が改善、新卒採用の重要性低下、労働者にとっての終身雇用の価値低下、転職の増加、さらなる中途労働市場の改善という流れだ。

つまりはこのように大企業側にも日本的雇用はいろいろメリットがあるわけで、だから簡単には崩れないのだと思った。

確かに今すぐに日本的雇用がなくなることはないだろうが、上のサイクルが逆にまわり始める時に一気に崩れ去っていくだろう。経済全体が伸びていかない以上、この流れを止めることはできない。

開発援助の成果主義

なぜ開発援助に成果主義の導入が進まないのかについての明察:

Linking aid to results: why are some development workers anxious?

Linking aid more closely to results is attractive from many different perspectives.  My own view is that linking aid directly to results will help to change the politics of aid for donors.

成果主義の導入は何よりも援助国が開発援助を政治的に正当化するのに役立つという。

I think donors will be freed from many of the political pressures they currently face to deliver aid badly; and it would be politically easier to defend large increases in aid budgets.

成果がきちんと観測できるのであれば、直接指示を与える必要もないので効率的だし、納税者も納得する。営業のように結果の見えやすい部署が成果主義に近い形で運営されているのと同じだ。

But there is one group of people for whom these ideas seem to be quite unsettling: development professionals in aid agencies and NGOs.

しかし、開発に関わる専門家やNGOはこれに反対しているという。何故だろうか。

The “risks” identified in the CAFOD brief are not primarily about the consequences for development but rather risks to the privileged position enjoyed by professional staff in aid agencies and NGOs.

それは援助の効果の問題ではなく、成果主義の導入が彼ら専門家やNGOが占めている特権的な地位を脅かすからだ。これは少し考えれば明らかだ。成果主義が導入されれば、今まで業務を細かく指示してきた管理職は必要なくなる。次の政治家との対比は切れ味がよい:

Politicians are, of course, at their most dangerous when they can no longer distinguish their own interests from the interests of the people they are meant to serve.  Similarly we should be concerned when we hear development professionals identifying themselves as speaking for the poor, and arguing that they must retain influence (i.e. power) – purchased by the relative wealth of their country – to promote strategies which the country would not pursue on its own.

政治家は正しい意図を持って政治のキャリアに入るが、いつのまにか政治的な力を手にすることが自己目的化する。これはあらゆる職業にあてはまる。自分の判断は一番正しいという考えが内面化された時に力を得ることは常に正しいことになる。開発援助の専門家であれば、援助される側に任せるのではなく、自分が指示するのが最も望ましいという信念を抱いたとき、自分が援助の内容を管理する力を保持することは望ましいことになる。自分が正しいと信じていないと何も変えることはできないが、それが飯のたねになったときその正しさへの信念を捨てるのは難しい

いい職場って何?

どんな職場がこれからの世代に必要なのか。日本が追いつくのはまだ先だろうがアメリカの状況について丁度とってもわかりやすいエントリーがあったのでご紹介:

Announcing: Brazen Careerist Top 50 Places to Work | Penelope Trunk’s Brazen Careerist

1. Salary negotiations are over.

サラリーの交渉の時代は終わった。

Gen Y doesn’t consider salary to be a huge factor in choosing a place to work because Gen Y knows that salary data is public. The days when a company can screw you by underpaying you are over.

今やサラリーの情報は共有されている。どこの会社がどのポジションにいくら払っているかなんてネット上で調べることができる(注)。情報がオープンで労働者が仕事を選べるのであれば、サラリーは自動的に市場の水準になる。競争市場に近づいている。

日本ではいまだに成果主義の是非を論じている人が多数いるが、時代遅れもいいところだろう。成果主義は流動的な労働市場と組み合わせでなければ機能しないそして流動的な労働市場の行き着く先は市場による労働者の評価だ。「主義」のはいる余地はない。ものを売り買いするときに普通主義主張は登場しない。そういうことだ。日本でもこの方向性は変わらない。

(注)日本ではどこにあるのだろうか。これはビジネスになる。

2. Social entrepreneurship is stupid.

社会起業家なんてものはない。

It’s stupid because you don’t’ need to be calling yourself a social entrepreneur in order to save the world. We no longer divide the world into non-profit people who are do-gooders and for-profit people who are money-grubbers. We are all here to do good. After all, what else is worth living for?

これは最近社会起業家に関する論争「金儲け=悪」の話を絵で説明してみるビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろうなどで繰り返し主張していることだ。営利が悪・非営利が善という時代は終わり(参考:非営利と営利との違い)、誰もが何か社会のためになることをしようとしている。逆に自分たちは社会起業家だと謳うことは、ものの捉え方が古いということだ。新しい優秀な人材を採用したいならやめたほうがいい。

3. Self-reported flexible workplaces are BS.

自称フレキシブルな職場なんて意味ない。

Flexibility is not something that Gen Y wants. It’s something everyone wants. The idea that we are going to run our lives around our work is ridiculous. It doesn’t work. We want to make each aspect of our life work well with the other aspects.

フレキシビリティは新しい世代の特徴ではなく、誰もが必要とするものだ。仕事が人生という生き方はうまくいかない。

In our Top 50 list we judge by how close a company gets to hiring 50% women. This is not scientifically proven, but it is true that while all demographics complain about inflexible hours, women will leave the company over it.

どの会社もフレキシビリティを主張しているのだから、言葉に耳を傾けてもしょうがない(みんなが欲しがっているならチープトークは何の情報も伝えない)。実際の行動をみる必要がある。その簡単な判定方法として女性の比率を挙げている。女性が多いかそれ自体が問題なのではなく、それで職場の環境を判定するのだ。これは非常に経済学的なものの見方だ。

ビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろう

Twitterでryosukeakahoshiさんが次のように呟いていた。

いまだに「ビジネス≒金儲け=悪」のような歪んだ先入観を持った大学生がいっぱいいる@福岡。何でそんな考えに至るんだろうか?学校教育?マスメディア?家庭教育?日本の風習?

「ビジネス≒金儲け=悪」という間違った考え方がどうして支持されるかというのは確かに面白い問題だが、その前にそれが間違っているということを説明した方がいいかもしれない。

お金を稼ぐ一番簡単な方法は人々に望まれていることをすること

お金を稼ぐとはどういうことだろう。例えば、レストランであればお客さんに食事を提供することだ。客はお金を払って=他の消費を犠牲にして食事を注文している。別に強制しているわけではないのでこれは客にとって望ましいことなはずだ。その食事は1000円だっとする。レストランはそれを1000円で自分から提供しているのだからそれで利益がでるはずだ。二人が自発的に取引を行っているということはそれが二人にとって望ましいということだ

レストランの例が示すように、ビジネスの本質は社会の非効率を解消して、その分け前を得ることだ。食事を食べたいがおいしい料理をすぐに作れないひとと、それなりの価格でおいしい料理をすぐに作れる人がただ並んでいるのは非効率だ。レストランは食事を提供することでこの非効率を解消し分け前として1000円をもらう。

解消する非効率が全体のパイで、利益はその分け前だ。ないパイは分けられないので、ビジネスが基本的にはパイを作り出す=社会をよくするものなのは明らかだろう。これがいいことでないというならそれはかなり変わった考えだ。

でも自発的じゃなかったらどうするの?

レストランの話は客が自発的に食事を注文していることが前提だ。もしレストランがぼったくりだったら、悪いことだろう。しかし、ぼったくりが犯罪であるように、取引を強制することはほとんどの場合に犯罪となる

これは偶然ではない自発的でない取引は一般に望ましくないので、それを犯罪としているのだ。強制的に物品を奪い取るのは強盗であり、金をだまし取るのは詐欺だ。これらの行為は何も生産しないどころか、その過程で暴力のようなパイ自体を壊す行動を伴う。だからそれは違法とされており、社会的に望ましくないビジネスは割に合わないように社会は作られている。犯罪にするほどではない場合には税金が課される。例えばタバコを吸うことは本人にとってはプラスなので完全に禁止するよりも税金で適当なバランスをとったほうがいいからだ。

抜け道は?

もちろん法律には抜け道がある。世の中の全ての望ましくない行動を事前に列挙することはできないからだ。でも、それを探してビジネスにするというのはあまり賢明ではない。我々はそういった行動を見つけて規制しようという意志をもっており、抜け道を利用して派手に稼いでいる人を見つけたらその抜け道を塞ぐからだ

逆に、社会のためになるけど儲からないこともある。例えば、科学技術に投資することで未来の人たちは利益を得るが未来の人々と取引をすることはできないから分け前をもらうこともできない。しかし、この場合でも悲観的になる必要はない。それが全体として望ましい限り、いつか我々は政府を通じてそれを支援する。政府という主体が未来の人の代わりとなるのだ。

ビジネスをしてお金を稼いで社会のためになろう

このようにビジネスは基本的に社会のためになるそういう風に社会は作られている。社会のためになることをしたいなら、なるべく大きな非効率を見つけてそれを改善すればいい。大きなパイを取れば分け前も多くなるのが普通だ。そうなっていない例外的なケースを探してビジネス・金儲けはよくないなんて気取っている暇があったら、何かを始めるべきだ大抵の場合、それで社会はよくなるのだから

ではなんで「ビジネス≒金儲け=悪」なんて考える大学生が多いのか

この問いへの私なりの答えは、ほとんどの日本の大学生は自分で商売をしたことがないから、というものだ。何か自分でものやサービスを売ってお金を稼いだことがあれば、こんなことが分からないはずはない。だってそうだろう。欠陥品を売りつけるのは難しく、みんなが欲しがる商品を売るのは簡単だ。捕まるリスクをおかして欠陥品を騙して売るよりも、商品を改善したほうがいい。それがビジネスであり、そうした改善の結果が金儲けだ。

追記:コメントでktamaiさんが指摘されているように、大学教員のほとんどが自分でビジネスにふれたことがないというのは大きな原因の一つのように思います。皆様有意義なコメントありがとうございます。

追記:図を使ってこのことを説明してみました。下のピングバックリンクからどうぞ。

付加価値を生んで税金(再分配原資)を収められるのは「産業」だけ。事業仕分けでみたように、残りは公務員もNGOも学者も芸術もスポーツも全部それを使う人neu