テニュアの経済学

最近、アメリカのアカデミックな労働市場についての「ポスドクとは アカデミアに仕事が少ない!編」を読んだ。当事者の目から説明されている良い記事だが、テニュア制度の存在意義についてはちょっと単純化しすぎなので補足したい:

The Economics of Tenure

まずテニュア(Tenure)というのは教授の終身雇用のことだ。ポスドクや助教授(Assistant Professor)は任期付きのポストで、研究実績がたまってきたらテニュアの審査を受ける。うまくいけば終身雇用が約束され、だめなら他の大学に移る。この制度は日本での導入も進んでいる。

元はといえばテニュア制は、学問的にメインストリームでなく、リスキーで過激な主張をする学者さんを、政治的な糾弾、弾劾から守り、学問の自由を保証するために存在した制度です。現在では、かなり形骸化し、雇用の安定を保証する以上あまり存在価値のない制度とも言えます。

ではこの制度はなぜ存在するのか。一つは学問の自由の保証だ。しかし、エコノミストの認識はそうでもない:

The economists who have analyzed tenure have seen it as a solution to the problems created by the special nature of academic employment instead of a protection for academic freedom.

テニュア制度は学問の自由というよりも特別な労働関係に対応するための仕組みだという。いくつかの問題が挙げられているが最も重要なのは以下だろう:

Carmichael (1988) argues that tenure exists within academic environments because worker-professors are called upon to select new members.

テニュア制度は既存の教授が新任の教授を選ぶという仕組みのためにあるという。どういうことか。

When the university has full information about the abilities and alternatives of incumbents and candidates, tenure is not part of the optimal solution. The least productive and most expensive professors will be fired and replaced by new candidates. However, when the university does not have full knowledge and incumbents have better information, the university will have problems getting incumbents to identify the best candidates if it plans to follow an optimal hiring and firing strategy. An incumbent cannot rule out the possibility that he or she will be fired in the future to make room for a candidate. Thus, if the university expects its incumbents to tell it who the good candidates are, the incumbent’s signals about candidates must not affect he incumbent’s probability of being retained.

根底にあるのは、研究者を採用することの難しさだ。例えば数学者を雇うとしてどの候補者を採用するか決めるのは数学者に任せるのが最適だろう。実際、大学教授は大学教授によって選任される。しかし、もし既存の教授の雇用が守られていなければ、彼らに公平な選出を期待するのは難しい優秀な若手を採用すれば自分の雇用が脅かされるからだ

同じことは高度に専門化された他の分野でも当てはまるだろう。例えば弁護士事務所であれば出世するとパートナーになる。弁護士事務所がパートナーシップを利用する理由は法律以外にもいろいろあるだろうが、ベテランに実質的な終身雇用を与えるという機能もあるだろう。

もちろん終身雇用を約束することは、働くインセンティブを失わせるが、そこはトレードオフだろう。インセンティブの低下には、学部全体を解散することでも対応できる。学部全体のパフォーマンスが低い場合に解雇されうることは、優秀な若手を避けることにはつながらない(むしろ採用するだろう)が、仕事をするインセンティブになる。

アメリカの地域別世帯収入

アメリカの地域別(county)の世帯収入の中間値があった:

Many Eyes: Income and Poverty, by County via Economix

BerkeleyのあるAlameda Countyでは$70,217となっている。Economixの記事によれば貧困が最も多いのがサウス・ダコタのZiebachで$25,592である。最も高そうなのはバージニアのLoudonで$111,582だ。もちろん地域内での格差のほうが大きいのでこれを一般化して何かを主張するのは難しいが、日本に比べると大きな差のように思える。

ちなみに平成18年度東京都福祉保健基礎調査によると東京都の世帯所得分布は以下の通りだ:

tokyo

500万円以下ので50.9%を占めているので中間値は500万円弱といったところだろう。

キリギリスの方が安全な社会

アリとキリギリスの寓話について、アリのように「安心」ばかりを追求することの費用についての指摘:

アリとキリギリスはどちらが幸せか 安心に払うコストを考える – keitaro-news

『安心』は不確実性を排し、変化を忌み嫌うことです。日進月歩で進む環境を無理に安定させようとすれば『安心』のために支払うコストは多大なものになります。

「安心」を過度に求めるアリ的な生き方は割に合わない。みんなが「安心」を求めれば「安心」の価格が上がるからだ。単なる需要と供給の問題だ。

安定や安全に関するコストを計算していますか?。

そして高いものを「買う」ときにはよく調べてからにするべきだ。

しかし、現代人にとって本当の問題は「安心」を求めることではなく、「安心」を買ったつもりになって「リスク」を買ってしまうことだろう。昔は「安心」と言えばアリ的生き方のことだったが、世の中はキリギリス的生き方のほうが「安心」な方向へ向かいつつある。別の言い方をすれば、リスクを避けたいのであれば三十年前に安定と呼ばれていた生き方をしてはいけない。両親に恋愛のアドバイスを求める人がどれ程いるだろうか。就職・転職でも同じだ。

いまや同じ会社で定年まで勤め上げることは難しい。転職をすることはリスクではない転職という困難な作業に対するスキルを上昇させることだ。そしてネットワーキングこそが現代の転職において最も重要なものだ。ひたすらこつこつと働くのではなく、外に出ていろいろな人に知り合い、チャンスがあればそれに乗っていくことが最もリスクの少ない生き方になりつつある。

「安心」のためにいくら払っているかを考えるだけでなく、本当に対価として得ているものが「安心」なのかよく考える必要がある。

博士人材活用の攻めの姿勢

民主党の「仕分け」で盛り上がっている博士の人材活用について:

「博士および博士級人材」の能力 – akoblog@はてな

「科学技術と企業家の精神—新しい産業革命のために」という本の紹介だが、次の本文が気になった:

先日のエントリで私が書いたことは、どうも個人的な待ちの姿勢と読まれた方も少なくなかったが、この本は強くお勧めしたいと思う。

本から引用されているのは次の一節だ:

(人材送出側の大学、本人、および企業側の)相互理解の不足問題の本質は、「博士および博士級人材」の能力は専門知識ではなく問題解決力、特に問題設定力 であることが、社会の共通認識となっていないことである。個別の企業に高度知的人材の活用法を委ねるだけでなく、国策としての方策も併せて検討すべきであ る。(「科学技術と企業家の精神」p184 より)

しかし、これもまた「待ちの姿勢」に過ぎないだろう。逆に考えればわかりやすい。何が博士人材を活用する上での「攻めの姿勢」だろうか

それは、博士人材の問題解決・設定能力が社会に認識されていないうちに彼らを優先的に雇用することで大きな利益をあげることだ(とりあえず博士人材の能力については上の主張が正しいとする)。もし博士号を持っている人間の本当の価値が他の人間に知られていないことが問題の本質であるなら、それに気づいて彼らを雇う会社は優位に立てる。単純な裁定取引に過ぎない。

では何故そういう行動に出る企業が存在しないのか。博士人材の過剰供給が取り沙汰されるようになって以来ずっと誰もこの(裁定)機会に気づかなかったのだろうか。それは俄には信じがたい。企業はパート労働者が割安だと気づけば雇用するし、派遣労働者が人件費削減に資すると分かれば世間から非難されようと大々的に導入する。やはり、単に企業が「博士および博士級人材」の能力は専門知識ではなく問題解決力、特に問題設定力 であることを知らなかったと考えるのは無理があるだろう。企業はそうだと分かっていながら合理的な判断として博士人材を雇用してこなかったはずだ

問題解決・設定能力が企業活動にとって重要であることは言うまでもないし、そういった人材が余っているという話も聞かない。よって潜在的な需要はあるだろう。ではなぜ企業は博士を雇用しないのか。まず検討すべきなのは情報の非対称だろう

企業からみて博士の人間の能力を判定するのは非常に難しい。問題解決・設定能力はどうやって測るのだろう。言うまでもなく、論文を読んで判断するというのは費用が掛かりすぎる。また、同業者と比べて明らかに学術業績がある人間はほぼ確実にアカデミアに残るため、企業が採用とする人間のプールだけを考えれば素人が見て業績に差があるようなケースもほとんどないだろう。自分がアカデミアにいる人は、違う専攻の博士をどう評価すべきかを考えればすぐに分かるだろう。例えば、他分野のトップジャーナルが何かなんて普通は知らない、ましてやある人がやっているその分野のごく狭い部分で重要なジャーナルが何かなんて業界の人に聞かないと分からないだろう。博士を取ったばかりの人間であれば参考にすべき情報もあまりない。

企業が学生の資質を測るのに苦労しているのは学部の新卒採用でも同じだ。何度も面接を行うのはその現れだ。しかし、面接をうまくこなせる能力や完璧なレジュメを書く能力よりも重要なことがある。それは出身大学だ。企業は学生の資質を測る最も簡単な方法としてどこの大学の学生かという情報を利用している。この場合、一流大学に入るということが能力が低い学生にとって比較的困難なため、シグナリングとして作用している(大学のシグナリングについて)。

こう考えると博士の就職がうまくいかない理由は簡単に分かる。それは大学というシグナリングの装置がうまく働かないからだ。企業は出身大学という情報を使って学生の質を推定することができず、採用をとりやめる。博士の就職問題を解決したいなら、この状況を変えればいい。まず、各大学(特にトップ大学)の定員を削減する必要がある。学部卒で考えれば分かる。誰でも入れる大学の卒業生を雇いたい企業がいるだろうか。その大学にも優秀な人はいるといくらいっても無理な話だ。

これは全体としての大学院の定員を減らせというわけではない。総数が同じであっても内部でランクがつけばよい。中程度の能力ならそうと分かればいいだけの話だ。それによって企業が学生を判断する手がかりが与えられる。学生の選考は難しくなるが、大学教授のほうが博士課程に進む学生の質を判断する能力には秀でている。特に国立大学はシグナリング機能を学生に提供しようという金銭的なインセンティブを持たないので政府の関与が必要だろう。

この場合でも何故学生がこのような状況でも進学するのかという疑問は残るかもしれない。しかし、それは学生がアカデミアに強い選好を持っていることで説明できる。また、実際学生が最適でない行動を取っているとしても、企業が最適でない行動をとっているよりはよっぽど自然なことだ。

シグナリングは社会的な費用になるのではないかという指摘についてはその通りだ。しかし他に効率的な手段がない以上必要だろう。アメリカでは大学院のランク付けは当たり前だ。また個々のプログラムは小規模でランクが上がるほどセレクティブになる。シグナリングはアカデミックな就職市場でも有効だ。業績が殆どない博士の能力を測る手段として大学院のランクが使われる。これには大学内の他の学部に対して採用決定の正当化に役立つという面もあるだろう。

おまけ:

もし自分には見分けがつくというのなら、就職支援・採用支援でビジネスを始められる。これはシグナリングなんていうコストリーな仕組みを使わない分社会的に望ましい。

見分けはつくがそれを信頼できる形で示せないというなら、自らビジネスを始めてできる博士だけを雇えばよい。優秀な問題解決・設定能力を持った人材を比較的低コストで雇えるのだから何をやっても利益を出せるはずだ。

体育会系優遇って何?

いつもコメントいただいているWillyさんのブログから(もとはこちらへのコメント):

統計学+ε: 米国留学・研究生活  「体育会系優遇」は優遇ではない

就職したことのない私がコメントするのもなんだが、「体育会系優遇」というのはどの程度真実なのだろう。発端となった記事によると、

同じ大学でも体育会の学生とそうでない学生では印象が違ってくることもあり、ある意味で、体育会というのは資格に近いと思います。

とある。しかし、これは「体育会学生の就職支援を行っているアスリートプランニング(東京都千代田区)」の担当者が言っているだけだ。

体育会学生採用の意向を知らせてきたのは、三井住友銀行、ソニー、パナソニック、伊藤忠商事、JR東日本、同西日本、JTB、富士フイルム、ジョンソン・ エンド・ジョンソン、資生堂、カネボウ化粧品、博報堂といった大企業。中小ベンチャーにも多い。採用の結果、文系総合職の半数以上を体育会学生が占めたと いう企業も複数あるそうだ。

客観的な情報はこれしかない(それでも上記就職支援会社の報告だが)。しかし体育会系の学生に一定の特徴があるなら適材適所という意味で採用しようと思うのは当然だろう。これは別に上に挙げられている企業が体育会系を優先しているということではない。もちろん文系総合職の半数が体育会系だということも体育会系の優位を説明しない。Willyさんの指摘するとおり:

「適性を活かした職種」として
不条理で根性主義の営業等をやらされるだけだ。

単なる最適な配置だろう。

「体育会系優遇」という「常識」は古典的なシンプソンのパラドックスにみえる。Wikipediaの数値例をそのまま利用させて頂くと次のような表で表される:

職種 \ 学生 体育会系 非体育会系
営業など 500人応募250人合格(50%) 10人応募9人合格(90%)
研究など 10人応募1人合格(10%) 500人応募100人合格(20%)
合計 510人応募251人合格(49.2%合格) 510人応募109人合格(21.4%合格)

この例では非体育会系の学生の方がどちらの職種においても合格率が高いにも関わらず、合計だけ見ると合格率が低いように見える。このような現象をシンプソンのパラドックスという。もちろん実際には矛盾でもなんでもない。単に、体育会系の方が合格率の高い職種を受験しているだけだ。合格率を受験者数で重み付けして平均を取っているためにこういう現象が起きる。よく考えればおかしな話だというのは分かるだろう。

とはいえ、

職種より勤務先が賃金の決定要因になる日本企業
では金銭的には優遇されてきた。

仕事よりも会社が重視されるのであれば確かに上の数値例であっても体育会系の学生が得をしていると言うことはできるかもしれない。しかしこのような不均衡は将来的には続かない平均的に優秀な学生にそうでない学生と同じ待遇をしていると、他の会社が優秀な学生だけを引き抜いたり学生が自ら正当な評価を得られる職場を求めたりするからだ。これが

今後、人材が流動化すれば職種による賃金格差が拡大し
体育会系の社員が賃金面で優遇されることはなくなっていくだろう。

という結論に当たる。逆に体育会系の社員が賃金面で(相対的に)優遇される状況がなくなれば、体育会系の人が有名企業に入りやすいという傾向は安定的なものになる。賃金面での不均衡さえなければ上の表にある状況は別に何の矛盾もないからだ。

こんなことを世の中の人がずっと信じているなんてことがありうるかという問いに関しては十分にありうるとというのが答えだ。Wikipediaにもあるがバークレーは実際にこの問題(誤解)で訴えられたことがある。大学院の選考が男女差別的だという訴訟だ。

Applicants % admitted
Men 8442 44%
Women 4321 35%

この表はWikipediaから取ってきたものだが、男女の合格率(1973年)に差があることが分かる。しかし、学部別の統計をみるとだいぶ様子が異なる:

Department Men Women
Applicants % admitted Applicants % admitted
A 825 62% 108 82%
B 560 63% 25 68%
C 325 37% 593 34%
D 417 33% 375 35%
E 191 28% 393 24%
F 272 6% 341 7%

多くの学部では実際に女性のほうが合格率が高い。単に女性のほうが合格率の低い学科に出願する傾向が高いというだけのはなしだ。

ここでの議論は、体育会系にメリットがあることを否定するものではないし、上に挙げた数値例には何の根拠もないしかし、よく聞く「体育会系優遇」という学生の「常識」が実際には何を意味しているのかに注意する必要がある