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「貧困ビジネス」の行き過ぎ

「貧困ビジネス」という言葉が流行っているらしい。とりあえずWikipediaを見ると次のような定義になっている:

貧困ビジネス(ひんこんビジネス)とは、貧困層や社会的弱者等といった弱い立場の人々から社会通念に反して不当な利益を得るビジネス形態を指す造語である。

これによれば「貧困ビジネス」は定義上悪いものとなるが、「社会通念」というのがまた何か分かりにくい。

先ほど新手の貧困ビジネスを報じる記事を読んだ:

新手の貧困ビジネス、「過払い請求」が台頭 過大な成功報酬、弱者につけ入るハイエナ集団 JBpress(日本ビジネスプレス)

多重債務者などから金融業者に対し支払い過ぎた利息(過払い金)の返還を求める動きが一気に広がった。

槍玉に挙げられているのは、「グレーゾーン金利」に関する過払い請求だ。

あおっているのは弁護士や司法書士事務所だ。電車やバスの車内広告で「過払い請求します」という広告を見かけたことはないだろうか。

弁護士・司法書士事務所が過払い請求を「あおっている」というが、これは悪いことなのだろうか。法的トラブルを解消するのが彼らの仕事であり、「過払い請求します」というのはごく普通の広告だ。

弁護士や司法書士などの専門家に頼めば、簡単な手続きだけで過払い金を請求することができる。

専門家である彼らが間に入ることで請求費用が節約でき、その一部が彼らの報酬となる。独占業務でなければ、専門家の仕事というのはそういうものだ。別に経営者が自分で仕訳をしてもいいが、それは効率が悪いから会計士・税理士を雇うのと同じだ。

弁護士の報酬は2004年に日弁連の報酬基準が廃止されてから、統一基準がない。そのせいでもないだろうが、簡単な作業にもかかわらず取り戻した過払い金の2~3割を成功報酬として受け取るケースが目立つ。

では何が問題か。元記事によると成功報酬の額だというが、その判断基準は「簡単な作業」ということだけだ。しかし、成功報酬というのは成功した場合にのみ払われるものなのである程度のプレミアムがのるのは当然だし、専門家の時間の価値を素人がそれは簡単だから安くするべきというのはどうだろう。

報酬基準がなくなったことは成功報酬の額とは直接関係しない。基準が人為的に低く抑えられれば過払い請求をやってくれる弁護士の数が減るし、逆に基準を高く設定することで利益を増やす可能性もある。

報酬が高すぎるというのなら、必要なことは価格のコントロールや広告の規制ではなく、サービス提供者間の競争だろう

だが、過払い請求の広がりとともに債務者と過払い請求を請け負う弁護士や司法書士との間のトラブルも増えている。

トラブルに対しては、実際に違法な行為であれば取り締まり、情報不足による問題ならそれを解消するような策を打つのが良い。例えば、サービス内容について雛形を公開したり、一定の説明義務を作ったり、個々の弁護士・司法書士についての情報をより積極的に共有できる仕組みを作ったりすればよいだろう。

大事なことは、「弁護士・司法書士に依頼すれば、全て解決」と任せっぱなしにしないことだ。この相談者は騙しやすそうだと思わせないこと。

これは正しい。消費者が態度を改めるのも重要だ。弁護士・司法書士もまた純粋な善意でビジネスをしているわけではない他のサービスを買う場合と同じように慎重になる必要がある

不況の深刻化で、いわゆる「貧困ビジネス」の裾野は広がる一方だ。貧困層に高金利でカネを貸す消費者金融やヤミ金融のような伝統的な貧困ビジネスばかりではない。

貧困層を騙す人間が存在するのは事実だが、貧困層へサービス・財を提供するビジネスを何でも「貧困ビジネス」と呼んでしまうのはまずい信用力のない人間にサービスを提供する際に価格が上がること自体は不正ではない

返す当てのない人間にお金を貸すためにはそれなりのリターンが必要だ。高金利でカネを貸すこと自体を非難するのは間違いだ。それをいったらノーベル賞の対象となったグラミン銀行だって高利貸しだ(ht kazemachiroman)。

例えば「敷金、礼金、仲介手数料ゼロ」を謳い文句にまとまった引っ越し資金を用意できない貧困層を引き寄せるゼロゼロ物件。家賃の支払いが1日でも遅れれば鍵を替えられて締め出される。

まとまった引越し資金も用意できない人々が家賃を滞納すれば、回収の見込みが薄いと考えるのは自然だ。締め出しを規制すれば、それによって生じる滞納の費用は家賃に跳ね返る。

ネットカフェは実質的には家を失った人が泊まる無許可の簡易宿泊施設と化しているが、ゆっくり休めないうえに割高な料金を取られてしまう。

これも誰が割高かを判定するのだろう。少なくとも他のオプションよりはましだから利用者がいるはずだ。自分で家を借りた方が一日当たりの支払いが少なくて済むことは誰でも知っている。

貧困層を相手にしてビジネスをするだけで、不当な利益を得ている悪い奴だと指差されては、貧困層にサービス・財を提供する人がいなくなってしまう。本当に不正な商売をやっている人を見つけ、対処することで世の中は改善していく(参考:「金儲け=悪」の話を絵で説明してみる)。何でも不正だと言ってしまっては前に進まない。「貧困ビジネス」という言葉が一人歩きしないことを望む。

追記:リンク先記事中の「貧困ビジネス」の定義もWikipediaと変わらない。

ホームレスや派遣・請負労働者など社会的弱者をターゲットに稼ぐ商売のことだ。弱者の味方を装いながら、実は彼らを食い物にするハイエナの仲間に「過払い請求」という新手が台頭し始めている。

拷問の方がマシ

追記:数字の解釈についてデータ・経験に基づくコメントをいただきました。ご覧ください。

エコノミストの考え方が象徴的なポストがあったのでご紹介。ついでにアメリカの少年拘置所(Youth detention center)の実態も垣間見える。

Overcoming Bias : Torture Kids Instead

一行でリンク先の提案を纏めるなら、非行少年を今の拘置所に入れるぐらいなら拷問したほうがいい、ということだ。エコノミストはこういう一見過激な結論を述べることが多いが、批判する前に待ってほしい。大抵の場合、本人も本当にそれが何らかの絶対的基準に照らして望ましいと信じているわけではないのだ。むしろ、冷静に考えてみたらこういう結論になるのでそれを仕方なく受け入れているというのが正しい。ではこの場合の理屈はどうなっているのか。

The US state is a horrible parent; 12% of its “detained” kids are sexually abused each year, versus 4% of adult prisoners.

アメリカの少年院の実状が明らかにされている。毎年、収容された少年の12%(大人は4%)が性的虐待を受けてそうだ(BJSのソース)。多くの収容所ではその割合が1/3にものぼる。これが現状だ。

But, honestly, torture and execution look pretty good to me when compared with our actual prisons; … Branding or stockades seems less cruel than rape in pretty much any book.

ここに筆者の価値判断として、かなりの確率でレイプされるぐらいなら、焼き印や拘束台(注)に繋がれる方がマシではないかとされている。この価値判断はそれなりに妥当だろう。上の事実とこの判断を認めるなら、今の拘置所よりも拷問のほうがマシだろう、という結論を受け入れざるをえなくなる。それは拷問を肯定することではない。

Compared to prison, punishments like torture, exile, and execution are not only much cheaper, but they can also be monitored more easily, letting citizens better see just how much punishment is actually being imposed.

さらに、拷問は収容に比べて費用がかからず、適切な執行がなされているかをモニターするのも容易である。後者は、収容所・刑務所の問題が管理する人間をうまく管理する方法がないというところにあることを考えれば重要な論点だ。

この結論を受け入れたとして拷問を導入する必要はない。現状の刑務所を改善し、拷問の方がマシだという状況を変えればよい。してはならないのは、結論を批判し、現状に目を背けることだ。例えこの事例が日本に当てはまらずとも、どんな問題についてもまず現状を理解するのが必要なことは変わらない。

(注)Stockade。定訳不明。晒し台(Pillory)の晒さないバージョンのこと。

追記

どうしても理解できない方がいらっしゃるのでまとめると、[latex]A=[/latex]現状の刑務所、[latex]B=[/latex]体罰の方がまし、として[latex]A\Rightarrow B[/latex]だと述べています。これは[latex]B[/latex]を意味しません。なぜなら[latex]A[/latex]が真でなければ[latex]A\Rightarrow B[/latex]でも[latex]B[/latex]は真になりません。

「株式」会社は株主のもの

株主至上主義って?」についての反論をLilacさんが書かれているので一応返答したい。
会社は本当に株主のものか?という疑問に答える本 – My Life in MIT Sloan

専門家を称する人は、「専門的にはこれが正しいんです。あなたは間違ってます」と言うのではなく、彼の感覚的な表現の、根本の問題意識に答えようとしてくれれば良いのに、と思った。

前者的な反論は既に池田信夫さんがなさっているが、Lilacさんが納得する説明のようには思えないのでここでは一問一答形式でいく。

そもそも、彼の言う「最近の余りにも株主を重視しすぎた風潮」、そしてそれを問題だ、と思う感覚自体は、至極まっとうじゃないのか。

彼の感覚が自然か否かについては議論していない。例えば、解雇された労働者を可哀想だと「感じる」のは真っ当だが、それを解雇を禁止することで助けるのは真っ当ではない。

まず「最近の余りにも株主を重視しすぎた風潮」というところだが、ここでは比較対象は、他の欧米諸国と比べてるんではなく、「日本の昔に比べて」ってことを言ってるのだと思う。

「最近の余りにも株主を重視しすぎた風潮」が「日本の昔に比べて」の発言だというのは妥当な推定だが、そうであれば「喝を入れたい」というのはおかしい。改善していっているだけかもしれない

例えば、1970〜80年代には、日本では優良大手企業でさえ利益率5%以下が普通だったのが、現在の企業経営ではROEと利益率が神様みたいに崇められてる。
これは「株主を重視しすぎる風潮」と言わずしてどう説明するか。

それは投資先が「優良」大手企業だったからだ。30・40年前の日本企業と今の日本企業とを同じ投資対象とみなすのは不可能だ

当時の日本企業は「効率が悪かった」のだろうか?

逆だ。当時の日本企業は成長の見込みがあるからそれでよかったのだ。成長の見込みがなければ投資家が配当という形で資金を回収するのは当然だ。成長していない企業に内部留保を残しても効率的な投資は行われない社会的な観点からみても同じだ。そもそも成長してもいない企業が持っているとされる会計上の内部留保の額なんて信用できるだろうか。

極端な議論かもしれないが、良いものを安く売ることで消費者に還元していた、とはいえないか。多少コストが高くなっても、簡単に従業員をクビにせず、たくさん雇っていたのは、従業員に還元していた、とはいえないか。

もちろん企業が存続しているということは、普通は企業は社会に貢献したということだ。そしてその貢献を消費者・従業員・債権者・株主が分け合っている。しかし、その貢献の量というのは誰が意思決定を行い利益をどう分配するかによって変わる。そして、通常、最大のリスクを引き受ける投資家が会社の重要事項と経営者を決定するのが効率的だ。

株主が最大のリスクを負っているのはP/Lをみれば分かる。消費者はその会社の財・サービスを買う必要は(独占でもない限り)ないのでリスクはほぼ負担しない。従業員の給料は会社の業績に関わらず支払われ、破産しても真っ先に確保されるのでリスクは小さい。そのあと利益が残って入ればまず債権者が取っていく。一番最後の残り物が株主だ。大体、この中で会社が払う額を後から決められるのは配当だけだ

米国の「優良企業」のように30%も営業利益を取るかわりに、5%以下に抑えて、消費者や従業員のためにはなっていたのではないか。

株主へ利益が渡せないなら投資は行われない。内部留保だけでやっていけるのであればいいが、それでは外部からの資金調達はできない。

また、前回も触れたが、企業・消費者・従業員を分別するのはおかしい。どの人も消費者であり労働者であり(少なくとも間接的には)企業の所有者だ。誰が得しているか、損しているのかを考えるよりも全体での利益を考えるべきだ。

そもそも企業の利益率が高くて、一体誰が喜ぶかをよく考えると、利益から法人税を取れる自治体以外は、そこから配当を得られる、もしくは株価向上が見込める株主だけじゃないのか?

利益が出たあとで分配をどうするかは、事前のインセンティブを変える。例えば、非営利企業には株主がいないし、そもそも給料や利息を払ったあとの残余利益をもらう人がいない。しかし、世の中の会社をみんな非営利企業にしたほうがいいという人はいないだろう。非営利企業がうまくいく場所もあれば、うまくいかない場所もある(参考:非営利と営利との違い)。株式会社も同じで適材適所だ。起業家は非営利を含め好きな組織形態を使えばいい

(多少関係するのは、格付けによる社債など資金調達の容易さだけだが、メインバンクからの負債中心の当時の日本型企業にはほとんど関係なかった)

負債中心ならそれでいいし、誰も企業にエクイティでの資本調達を強制したわけではない。しかし、株式を売ってお金を集めたなら配当をする必要がある。株主から投資を受けた後に株主の要求はうるさいというのは、お金を借りたのに利息に文句をつけるようなものだ

その結果、多くの企業の経営者が株価や株式総額を気にする余り、市場に説明できないような長期的な投資が出来ない、と悩んでる。

まず、株主もまた長期的な利害は考えている。株主が内部留保を配当させれば株価は下がるので売り抜けても(超過)利益はでない。もちろん例外的なケースはありそれはそれで規制すべきだが、それはあくまで例外だろう。

「日本の企業って、昔はもっと従業員やお客様を大事にしてたんじゃないのかなぁ・・・
それなのに、今は企業が短期的に利益を上げることだけ考えろって言われてる気がする。
それって得するの、株主だけだよね・・ これって本当に正しい方向なんだろうか?」

「株主価値経営が当然だっていうけど、本当に株主だけなのかなあ?
企業って従業員も取引先もお客様も大事だし、ひいては社会的な使命をもってるんじゃないのかなあ」

大体から言って、「企業の経営者」の意見を聞いてもしょうがない金を借りた人間に金貸しについてどう思うかと聞いているのと同じだまともな人ほどあの時貸してくれてありがたいと答え、だめな人ほど金貸しは金儲けばっかだと答えるだろう。こういう経営者は銀行にも同じことが言えるのだろうか

株主の発言権を重視するのは、基本的に一番リスクを負っている人間に発言権を与えるのが一番効率がいいからだ。他人の金で相撲を取っている人間は信用できない。

別に経済学や経営学の知識で武装しなくても。

多分、漠然と株主主権が問題、と思ってるのは藤末議員だけじゃない。

それはそうだ。漠然と株主主権は問題だと思っている人はたくさんいるしそれはいいしかし、会社法の改正に関わる議員に同じ基準は適用できない。仮に株式会社の法制度を変更する必要があっても「漠然と」思っているのでは困る。今回の藤末議員の発言は議員が企業の制度について理解していないという事実を明らかにしたから問題なのだ。ましてや、国会議員としては非常に期待できそうな経歴を持つ藤末議員に対する期待は高く、それが裏切られたことに対して批判や失望の声が上がるのは当然だろう。

あげられている書籍は入手できないので細かいコメントはしないが、

簡単に書くと、ポスト産業資本主義で最も大切になるのは、新しい知識や情報を常に生み出せる人的資産である。その人的資産を採用し、育て、つなぎとめ続けられる企業が、長期的に成長することが可能だ。そのために必要なのは、株主の方を見た経営ではなく、従業員に目を向け、従業員が離れにくい文化と制度を有する経営。それは、株主主権では実現できない、という話だ。

この部分が正しいとして「株式会社が株主を重視する」ことへの反論にはならない。誰も株式会社にしろとは言っていない。好きな形態をとればいい。単にいいとこどりはできないだけだ。株主に経営への影響力を与えなければ、リスクの高いエクイティ投資など誰もしない。逆に「従業員に目を向け、従業員が離れにくい文化と制度を有する経営」がそれほど素晴らしいなら、上場なんてしなくていもいいはずだ。内部留保と銀行からの融資で事業を拡大すればいい。前の記事で上げたGoogleは株主に口をださせず順調に拡大している。

親子上場禁止をひも解く

昨日は公開会社法が世間を騒がしたが(参考:株主至上主義って?)、親子上場の禁止についても議論があった:

藤末さんのブログ記事の件でもちきりでしたが、こっちも実現なら、インパクト大。でも、こっちは、ベクトル自体は正論だと思うけど > 市場激震必至!民主議員がブチ上げた「親子上場禁止」の波紋 (via tabbata@twitter

この件についてny47thさんと相変わらずの素晴らしいやりとりができたので、内容を簡単にまとめておきたい。

市場激震必至!民主議員がブチ上げた「親子上場禁止」の波紋 – livedoor ニュース

民主党議員が、親会社とその連結子会社がともに上場する「親子上場」の禁止をブチ上げ、波紋を広げている。

「親子上場」というのは親会社・子会社が独立して上場することだ。それが今民主党により禁止の方向へと向かっている。しかし、その根拠は何だろう。

親子上場では、子会社が親会社の意向を受けて不利なことを押し付けられ、子会社の他の株主がないがしろにされる可能性があることが問題視されてきた。

子会社の株主の利害が問題視されている。これは親会社が(定義上)上場子会社の議決権を抑えているため、その他の少数株主が意思決定に影響を及ぼせないためだ。しかし、これを問題と捉えるのは二つの観点から難しい。

まず、少数株主が意思決定に強い影響を持たないこと自体は「少数」なのだから当たり前のことだ。関連会社や他社との持ち合いで、意思決定を一部の株主(の集団)が抑えてしまうことは親子上場でなくてもある。

次に、子会社が不利なことを押し付けられることと株主が蔑ろにされることは全く違うことだ。子会社の少数株主は事前に不利な立場に置かれることを知った上で、それを織り込んだ価格で子会社の株を購入している。小学生がじゃんけんで荷物持ちを決めているようなものだ。じゃんけんをした後では(事後的に)一人の子供がいじめられているように見えるがそれは実態を表してはいない。そこに大人が入っていっても迷惑がられるだけだろう(明日からの友達関係を気にしなければ負けた子供だけは喜ぶが)。

一般に、自発的な取引で片方が「搾取」されることはない。「搾取」されることが分かっていれば取引には参加しないからだ。消費者が騙される可能性はあるがそれを株式市場に持ち込むのは望ましくない。参加者はルールを理解しているべきだし(参考:フランチャイズの問題点)、後で取引をひっくり返される恐れがあっては資本市場が有効に機能しない(注1)。

逆に親子会社の上場が自発的に行われているという事実は、それが親会社にとっても、子会社に新たに出資する投資家にとってもプラスであるということを意味する。親会社であれば子会社の収益ストリームを区別することで効率的に資本を集められるということはあるだろうし、子会社の少数株主とっては(リスクを含め)新しい投資機会となる。他にもメリット・デメリットあるだろうが、ポイントはある自発的な取引が市場で長いこと行われたきたのだから、それなりの理由がある=メリットがデメリットを上回っているはずということだ(注2)。

親会社が子会社の意思決定をコントロールしてしまうことによるガバナンスの問題はあるだろう。しかし、これはまさにガバナンスの問題として対処すべきで、子会社上場を禁止する理由としては非常に弱い。同じ問題は支配的な株主(の集団)が存在する場合には常に存在するし、ガバナンスがうまくいかないとしてその費用を負担するのは結局のところ親子会社と株主でしかない。その費用が上場のメリットを上回っているからこそ子会社上場が行われたはずで禁止する理由にはならない。

では親子会社上場を禁止する真っ当な根拠は何があるだろう。一つ考えられるのは国際的調和だ。要するに他の国では子会社上場が行われていないからそれに合わせようという話だ。通常単に海外に合わせようというのは制度を変更する強い理由にはならないが、海外の投資家が日本に投資しやすくするという点では意味がある株主至上主義って?で批判した外資を悪者にする主張とは整合しないが)。

親子上場を解消する方法はおもに2つ。TOBを実施して他の株主から株を買い取るか、子会社の株を親会社の株と交換する株式交換方式などで完全子会社化 し、子会社を上場廃止にする手法が1つ。もう1つは、保有株を市場などで売却して持ち株比率を3分の1以下に減らすやり方(子会社の上場は維持)だ。

しかし、制度を変更することのコストも忘れてはならない。禁止それ自体によるコスト(上場が持つはずのメリットの喪失)はもとより、親子上場企業が多く存在する現状を急激に変えることは余分なコストを発生させる。これが本当に不況真っ只中の日本に必要なことなのだろうか。

減量に例えればこうだ。理想体重よりも5kg重い人を考えよう。5kg余分でも本人は何も不都合がないが、一ヶ月でそれだけ減量しようとすればそれこそ健康を害する。ましてや体調が悪いときにやることが必要だろうか。しかも、5kg重いのは単に筋肉が多いせいかもしれないのだ。

(注1)これは個人投資家を持ち上げるような動きが何かピントの外れたものであることを示唆している(これは「インフォームド・コンセントと日本」の話とも似ている)。

(注2)取引に参加しない第三者が損害を受けている場合には問題だが、このケースでは思い当たらないし、根拠として報道されてもいない。上場のための費用も基本的に取引参加者(親子会社・株主)の負担だ。

安楽死の経済学

安楽死の違法性についてのポストだがどうも主張がはっきりしない:

アゴラ : 安楽死に殺人罪を適用すべきか – 岡田克敏

この種の事件があるたびに「殺人罪」という罪名に対して違和感を覚えます。死期を控えた患者の苦しみを見かねた遺族が医師に懇願したケースが、強盗殺人な どの利己的な動機のための殺人と同じ殺人罪で処断されるということに対する違和感です。両者はかなり異質なものに思えます。

「違和感を感じる」というのは、安楽死を合法化する根拠として薄弱に過ぎる(注)。何故違和感が生じるかが問題だ。では何故安楽死と強盗殺人が違うのか。死をもたらした人間の動機が利己的か否かというのはあまりよい切り口ではない。安楽死を行った医師もまた自分の意志で行動しておりそれが利己的なのかというのは哲学的問題だ。

一番大きな差は死んだ人間に合意があったかだ安楽死においては当事者間に合意があり、強盗殺人においてはない合意があったということは当事者全員にとって安楽死がプラスということであり、重要な利害関係を持つ人が当事者に含まれている限りそれは社会的にもプラスということだ

自殺もまた死亡する本人の意志に沿っているという点で安楽死と同じだが、本人以外の利害関係者(家族など)の合意の有無でことなる。この意味で安楽死は自殺よりも強い正当性を持つ。

さらに、安楽死を選択するのは終末医療においてだが、その費用の大部分は健康保険によって賄われている。延命を続けるための費用に補助がでているのにも関わらず延命を止めることをことを選択しているのだから、安楽死の方が延命を続けるよりも大幅に望ましいということだ。意思決定者には考慮されていない終末医療のための保険支払い額まで含めれば費用便益の観点から言って安楽死が社会的にプラスなのは明らかだろう。

では安楽死を認めることの問題は何か。それは当事者全員に合意があるという前提だ。当たり前だが家族であってもそれぞれの利害は一致しない家族の意見が一致してもそれが本人の意志と一致しているとは限らない。これが特に大きな問題となるのは、既に本人の意志確認が難しくなっている場合だ。

現実的な提案としてはいくつかのパターン分けが望ましいだろう。例えば次のようなものだ:

  • 本人の意志確認が可能で家族の合意があれば合法
  • 本人が意志を事前に残しており家族の合意があれば合法
  • 本人の意志確認ができなくとも第三者が一定の基準で判断したうえで家族の合意があれば合法
  • 本人が拒否の意志を示している場合には状況によらず違法
  • 強い利害関係の対立がある場合には調査
  • 家族に限らず強い反対を表明するものがいる場合には調査

詳細はそれぞれのパターンの生じる確率やルールの執行にかかるコストによって決めるべきだろう。ポイントは本当に全員の合意がとれているか、その確率はどのくらいか、判断が間違ってる場合の費用はどの程度かということだ(理論的には全員の合意がなくとも社会的に差し引きプラスということもあるが、その計算に必要な情報を集めるのは不可能だろう)。安楽死が行われた場合にはそれを取り消すことはできない(これは死刑の是非の問題と似ている)。

また、生命は今後数十年間生きられる命もあれば、あと数時間、数分の場合があります。残り数分の命を縮めても殺人となります。

費用を考えるうえでは生命の価値についての議論も避けて通ることはできないだろう。生命の統計的価値が高齢・不健康になるにつれ減少するのは事実であり、そのことを社会がどのように扱うかを考える必要がある。

(注)当該ポストには「疑問を覚える」「異質なものに思える」「乱暴だと思う」「問題にならないと思う」といったような曖昧な表現が多く言論としては望ましくない。これはこのブログがである調になっている理由の一つだ。