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サラダはビッグマックより高い

マクドナルドでサラダがビッグマックより高いのにはいろんな理由があるが、補助金政策もその一端だ。

Why A Salad Costs More Than A Big Mac – The Consumerist via FlowingData

右側が連邦政府の推奨する食品の配分、左側が政府が出している補助金の配分だ。如何に肉類・乳製品に大きな補助金が出ているかが分かる。砂糖やハイフルクトースコーンシロップの原料となるコーンへの補助金も莫大だ。この状況でファーストフードは身体に悪いから税金をかけようというのは何かおかしい。

日本の場合どうなっているかも興味があるが、関税や輸入割当を通じた補助金以外の保護が多いので数字を出すのが難しそうだ。

新聞と政治

新聞の政治的な傾向(slant)についての興味深い研究が紹介されている。

Econbrowser: What drives media slant?

Gentzkow and Shapiro propose to measure the slant of a particular newspaper by searching speeches entered into the Congressional Record and counting the number of times particular phrases were used by representatives of each party, mechanically identifying phrases favored by one party over the other.

議会で民主党と共和党が使用した語彙が各新聞で使われている頻度から政治的な傾向の指標を作っている。主観的な指標よりも望ましいだろうし、結果として主観とも整合的だ。日本でも知られている(?)ところではLA Times・SF Chronicle・NYT・WaPoなんかは民主寄り、WSJ・Washington Timesなんかは共和寄りだ。

面白いのは、新聞社の所有者が新聞の政治的な傾向に及ぼす影響だ。

右が政治的傾向、左が同じ所有者の新聞の政治的傾向の平均となっているが、統計的に有意な相関は見られないとのこと。つまり所有者ごとに強い政治的傾向があるわけではないということだ。新聞と流通地域の政治的傾向には相関があることからすれば面白い。

Gentzkow and Shapiro conclude that papers to some degree are just giving their readers what the readers want so as to maximize the newspapers’ profits.

これについて筆者らは新聞社は単に読者が望むものを提供しているだけだと結論づけている。確かに、読者が望まない主張を押し付けようとしても売上が他の新聞社に回ってしまうだけでは経営が成り立たない。

新聞がごく一部の強い好みを持った人だけが購読するものになれば、誰にでも売れる新聞よりも極端な主張の新聞が増えるだろう。

追記:後半の推定については全国紙(NYT・WSJ・CSM・USA Today)は除外している模様です(ht @TrinityNYC)。

ランダム選挙

選挙に関する面白い提案があったのでご紹介。

Fewer Voters Are Better Voters

The reason so many bad policies are good politics is that so many people vote: about 62 percent of adults at the last general election, both in Great Britain and in the United States.

どうして、どうしようもない政策が政治的に遠ってしまうのか?ロビー活動がその原因として挙げられるが、そのロビー活動が効果的なのはあまりにも投票する人数が多いからだという。

This is the position of voters in a general election. Each individual’s vote makes no difference to the outcome. Even marginal districts are won with majorities of hundreds.

自分の投票が結果に与える確率はほぼゼロなので結果を目的に投票するインセンティブはない。これは直接民主主義でも変わらない。

The answer is not to increase voter turnout. On the contrary, the number of voters should be drastically reduced so that each voter realizes that his vote will matter.

ここまではよくある話だが、次の展開が面白い。人数が多いことが問題なら減らせば良いという。選挙区毎に例えば十二人をランダムに選んで投票させればいいと提案されている。

ランダムに選択し投票を強制することで、世代によって投票率が違うといった問題は回避できる。また、個々人の投票が結果に大きな影響を与えるため考えて投票させることができる。

To safeguard against the possibility of abuse, these 6,420 voters would not know that they had been selected at random until the moment when the polling officers arrived at their house. They would then be spirited away to a place where they will spend a week locked away with the candidates, attending a series of speeches, debates and question-and-answer sessions before voting on the final day.

買収の問題を防ぐために事前には知らせずに、該当者は連行され(spirited away)、一週間候補者と共にスピーチ・ディベート・質疑応答を行うという。人数が少なければこういった啓蒙にかかる費用も小さくなる。

All of these events should be filmed and broadcast, so that everyone could make sure that nothing dodgy was going on.

これらの内容をさらに録画・放映することで疑わしいことが行われないことを担保するそうだ。

人権の問題などいろいろと弊害もあるし、実現する見込みは皆無だが、思考実験としては面白い。

「自分が悪い」の何が悪いのか

どうも最近首を傾げるような記事が増えていて残念なアゴラから:

アゴラ : 自分が悪い 助けてといわない若者 – 原淳二郎(ジャーナリスト)

自分が悪いと考えてしまう若者が増えているという問題(?)が取り上げられている。20代後半の私も「若者」に含まれるだろう(しかしいつから「三十代の若者」などという概念が登場したのだろう)。

現在の不遇な環境、不幸は社会の責任ではないし、まして親の責任でもない。だからいくら困窮しても助けてといえないのだそうだ。30代の若者の現象らしい のだが、日ごろ学生を見ていて同じように感じることがある。

実際、問題に直面する原因の最も大きなものは自分の行動だろう。また、他人のせいにしたところで問題が解決するわけではないので、そういう考え方を持たない方が本人にとってもいいはずだ。

心優しいのか、誰が悪い、社会が悪い、教師が悪いなどといわない。毎日の生活に被害者意識が薄 い。

そしてそれは「心が優しい」からではない。単に、頑張ればもっといい状況にできたという事実認識と、被害者意識を持つより自分のせいだと考えた方が生産的だと知っているだけだろう。このような認識の何が問題なのかよくわからない。

毎日の生活に被害者意識が薄い。私の子どものころは、毎日食うものに困り、親からは家業にこき使われ、何もいいことがなかった。なぜこんなに自分は不幸な のか、と思うと同時に、自分が悪いから不幸なわけではない、周りが悪いのだと考えた。事実社会はまだ貧しかった。家業は二度も倒産した。社会への関心政治 への関心はそのころから生まれた。

確かに、貧しい社会でそういう育ちかたをすれば、社会や親が悪いと考えるのは分かる。しかし、現代の社会はそこまで貧しくないし、そういう環境で育つ人は昔に比べて相当減ったはずだ。

だからテレビがいうところの自分が悪いという若者の論理がよく分からなかった。大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。

現代社会において、多くの人の成功は自分の努力にかかっている。他の要因もあるが、自分が一番重要な要素だと多くの人が認識しているだけだろう。そしてその認識は基本的に正しい。

もうデモやストだけが社会的表現手段だった時代ではない。ネットなどでいくらでも表現できる。

まさにその通りで、不況でもストライキやデモのような非生産的な行動はしない。そんなことをしなくても「ネットでぶつぶつ不平をつぶやく」だけで、不平を世間に知らせることができるのだから当たり前だろう。不平が社会に流れていくチャンネルが変わったのだ。

日本には彼らが貧しいのは自己責任だという風潮がある。いつからこんな風潮が広まったのかは知らないが、不当に弱者に追いやられた人々が不満の声をあげられない社会をわれわれはいつの間にか作り上げてしまった。

これは風潮というよりも、時代が変わっただけのことだ。個人の努力ではどうにでもならない貧困がはびこる社会では貧しいことは主に社会の問題だが、努力すれば成功できる社会においては貧しいことが一義的には個人の問題となる。日本は大方前者から後者へと移行した。そしてそれは喜ぶべきことだろう。ご自身で指摘されているように、「不満の声」はネットを利用して簡単にあげられる。

もちろん、このことはより個人が努力によって成功できるように仕組みを改善していくことを妨げるものでは全くない。しかし何でもかんでも親のせい、社会のせいと言っている社会には未来がない。勉強ができないのは親や環境のせいだと文句をいっていた子供が成功しているだろうか。

追記:困っている人がそのことを社会に伝えるのは重要だが、本人が自分の問題だと認識していなければ援助しても効果がないとも言えるか。

P.S.

母親から毎月1500万円も贈られながら「知らなかった」人には、貧しくて声もあげられない人たちの心情などとても想像できないことだろう。

結局この一文を言いたかっただけのような気もする。しかしそういう政治家を選んだのは有権者であることも事実だ。

衰退産業が持ち出す文化議論

今日、仲俣暁生さん(@solar1964)が「そもそも出版文化って、文化なんだろうか」と発言されていた。しかし、出版業界の人間でもない私にとって出版が文化かどうか自体にはあまり興味がない。単に「文化」の定義によって決まるだけの話で、出版業に特別な文化的要素があるのなら銀行にも医療にも、当然アカデミアにもある(そして保護したいようなものでもない)。それなりに閉鎖的な業界ならどこでも「文化」と呼びうるものがあるだろう。消費者にとっては重要なのはその「文化」が何を生み出すかであって、「文化」そのものではない。

では何故今になって出版業界は文化について論じ始めたのか。これは業界を保護してもらう口実だ。それも、「出版」ではなく「業界」であることがポイントだ。「出版」を守るためなら出版「業界」を守る必要はない。日本の農業や林業を守るために既存の業界における「文化」を保護する必要がないのと同じだ。だから、農業・林業保護の議論に株式会社導入は表立って出てこない。

文化そのものである著作物の生産やその流通を政府が支援する理由はいくらでもある。最も大きいのは著作物の公共財的性質であり、著作権は(本来期間を限定された)独占権を与えることで著作者にインセンティブを与え、出版に関わる人々はその権利から生じる利益の一部を得る。しかし、今出版業界に起きているのは競争相手の出現だ。そして著作者にとってはダウンストリームで競争が起きることは取り分が増えるという意味で望ましい(出版社がKindleとiPadが競争するといいと思うのと同じだ)。

一産業が自分たちのやっていることは文化だと言い出す時、その業界は回復の見込みがない程に衰退へと向かっている。重要なのはその産業が担っていた機能が社会に提供されているかであって、以前その機能を果たしていた業界が存続しているかではない。既存企業を保護することは技術変化に対応して新しい価値を提供する新規企業を潰すことでもあり、業界が「文化」と言う言葉を使った時は特別に慎重になる必要がある。