リーダーシップと英語の授業

Twitterで見つけた次の記事を読んだら昔受けた英語の授業を思い出したので紹介したい。

リーダーを育てる|傲慢SE日記 ~30歳からの挑戦~

リーダーの仕事は一言で説明する事が難しい。あえて言うなら、目的を達成するためにチームの潤滑油になるというべきだろうか。[…]目的を達成するために何かをすると言う事は様々な事に気を使わなければならない。そのため、状況に応じて様々な仕事の進め方を選択(創造)する必要がある。それこそ想像力 がものを言うと僕は思う。さて、このリーダーをどうやって育てれば良いのだろうか?僕が推測するに、僕がそうだったように、、、自発的に成長して貰うように促すしかないと僕は思う。

この話を読んで思い出したのが大学一年の時に受けた英語のクラスだ。残念ながら教官の名前は忘れてしまった。英語の授業としては微妙だったが、リーダーシップ・チームワークについて非常に勉強になる仕組みだったので強く印象に残っている。簡単なメカニズムは次の通りだ。

  • 英文の記事が一つ用意される
  • ランダムに5,6人のチームが組まれる
  • チームごとに記事の内容を問う設問を5,6個作る
  • 設問の適切さや作成にかかった時間に応じて点数が決まる
  • チームの点数が個々人のその日の点数になる
  • 毎回、以上のスキームを繰り返す
  • 成績は個人ごとに集計された合計点数で決まる

最初の2,3回の間、自然発生的に始まった民主的な意思決定方法に従った。みんなが記事を全部読み、案を出し合い、どれがいいか合議で決めるというような流れだ。はっきり行って全然うまく行かなかった。案を出すのにも問題を選ぶのにも時間がかかりすぎた。最初は遠慮もあり何も口出ししなかったが自分の点数もかかっていたので声をあげることにした。

まず提案したのは文章をある程度分割した方が効率的なことだ。これにより無駄な仕事の重複が減り、民主的な意思決定のコストをなくすことができた。またある設問の質が低い場合に誰の責任かが明確になるため、質が安定した。これで作成時間が劇的に減少し、スコアはすぐに上がった。

それでもまだどの問題を誰に割り振るかを決めるのには時間がかかった。そこで議論するのをやめて、個々人に自分の英語力を自己申告させ、低いメンバーから前の方を強制的に割り振るようにしたら一段と点数は上昇した。強権発動が若干の反感をよんだが無視した。

クラスも折り返し地点に差し掛かるころには、そもそも全ての人間に仕事を割り振ること自体非効率だと気付いた。チームが決まったらまず英語が得意だと申告しなかった人間は作業に参加させないことにし、その中で一番ましな字を書く人間を設問の書き取り専門にすることにした。

残りの人間にはとりあえず前から読み始めてもらい、その間に作成時間によるボーナスの最大点が適用される時間制約までに自分で作れる問題数をさっと把握し、残りの問題をカバーすべき部分とセットにして一人一人に割り当てた。これにより、問題作成者はみな文章全体を眺めてから作成するようになり、かつ英語の苦手な人間が問題を作らなくなったので問題の質も向上した。

この時点ではすでに、クラスの人間の英語力の大体の分布を把握していたので割り当てもかなり適切に行えたし、毎回自分の入ったチームで満点近いスコアを上げていたため、方針を一方的に決めてもメンバーは全く不満なく従ってくれるようになっていた。

もちろんこの設定にはいくつかの前提条件がある:

  1. チームへの参加は強制
  2. リーダーとしての地位は確定されていない
  3. 仕事の評価はチームメンバーで共通
  4. チーム自体は毎回ランダム
  5. クラスは繰り返し行われる
  6. チームの人数が少ない
  7. みんなが高得点をとることを目標にしている(ht @notweb

これらの前提が違う場面では異なるリーダーシップの要素が要求されるだろうが(例えば大規模な組織や任意参加のクラブなど)、このクラスは複数の人間を動かして目標を達成することについて学べたように思う。上の条件をいろいろ変えてやれば、さらに学べることがありそうだ。

Twitterでは「つぶやく」な

注意:Twitterの仕組みに関する記事なので利用したことのない人には分かりにくいかもしれません。とても良くできた仕組みなので、ぜひ利用されることをお勧めします。よろしければフォローください

最近、「Twitterを「つぶやき」と翻訳した罪」なんて記事を読んだ。記事中には次のように「つぶやき」という訳の問題が指摘されている:

「140文字限定」、「つぶやき」、「フォロワーにのみ伝える」。こうしたキーワードだけで判断すると、いかにも閉じた空間の自己満足的なツールにしか見えない。

これは確かに残念なことだ。何故ならTwitterがFacebookやMixiのようなSNSと異なる点がまさにその開放性にあるからだ。Twitterも元々はFacebookにおけるステータス更新をSMSで行う仕組みだった(参考:Wikipedia)。Twitterのオフィシャルサイトでの質問が”What are You Doing?”だったことがそれを象徴している。

ではTwitterがFacebookのステータス更新やMixiの日記と違うのは何か。それはTwitterの仕組みの根底にある一方向性だ。従来のSNSでは友達になるためには相手の承認が必要だ。昔の友達を発見したり、最近会った人を見つけたりするのには役立つが、あくまで既存の人間関係を補完するものに過ぎない。見ず知らずの人間が友達リストにたくさんいる人は少ないだろう。それはまさに「友達」リストなのだ。

逆にTwitterにおける「フォロワー」は一方向的な概念だ。相互にフォローすれば「友達」と変わらない状況になるが、最初は常に一方通行で始まる。例え現実に友達同士だったとしてもどちらかがフォローを始めるのには変わりない。この一方的にフォローし始めるのがデフォルトという仕組みがTwitterの革新的なところだ

まず私が誰かをフォローし始める場合を考えよう。これはFacebookやMixiではまずうまくいかないがTwitterではごく自然なことだ(だからTwitterがSNSと何が違うかを知りたければまず一方的にいろんな人をフォローしてみよう)。この状態ではフォローした相手のTweetが自分のタイムライン(TL)に表示されるだけでブログをブックマークしたりRSSで購読しているのと大差ない。しかし、ここから相手に@でメッセージを送ったり、Retweetで相手のTweetにコメントすることが可能だ。意味のあるコメントをすれば相手がフォローし返すこともあり、何の関係もなかった人間と「友達」になることができる。相手は決まっているのでこれは「つぶやき」でも「フォロワーにのみ伝える」でもない。しかしこの特性を生かすためには、できるだけ有益なコメントをする必要がある

逆に自分が誰かほかの人にフォローされるのはどんな場合か。それは自分のTweetに価値がある場合だ。現実の友達であれば朝何を食べたかにだって興味があるかもしれない。しかし、既に有名人でもなければ見ず知らずの人間があなたのごく普通の日常に興味を持っていることはない。他人にフォローしてもらうためには、なるべく有益な情報や興味深い議論を提供する必要がある。しかも、Twitterは多くのネット上のシステム同様にストリーム型のコンテンツであり、紙媒体とは異なりぱっとみて取捨選択するには一工夫(リスト・フィルター・ボットなど)が必要だ。ストリームの価値を上げるにはノイズ比を下げる必要があり、それは大した意味のない「つぶやき」をしないことを意味する

これらの特徴はブログにもそのまま当てはまり、Twitterがミニブログ(microblogging)に区分されるのも頷ける。旧来のブログと異なるのは、情報の送り手・受け手という関係が固定的でないこととリアルタイムであることだ。ブログでもコメント欄などを通じて読者と交流することは可能だが、相手もブログを持っていない限りやりとりは限定的だし、常に非同期な形でしかない。Twitterはその交流を自然な形で拡げることができるという点で、ブログを書いている人にとってコメント欄を代替する必要不可欠なチャンネルになりつつある(TopsyのようなTwitterのアグリゲーターが役に立つ)。

先ほど、MixiやFacebookについて「既存の人間関係を補完するもの」と述べた。これは別の見方をすれば非常に不自然なシステムだ。現実の人間関係は常に新しい可能性へと開かれている。その意味でTwitterは「既存の人間関係の在り方をネット上で再現するもの」と言えるかもしれない

ちなみに、相互にフォローしあっている、つまり「友達」状態の場合には@でやりとりすることで、両者をフォローしている人以外のTLにはTweetが表示されなくなる。これにより、そのやりとりに関係ない人に対しての自分のストリームの価値を下げないで済むし、既存の友達との間のインスタント・メッセンジャーとしての役割も果たせる。

日本版フェアユース

アメリカでは著作権侵害の申し立てに対し、フェアユースが抗弁として用いられる。フェアユースが認められるかどうかは以下の四点(17 U.S.C. § 107)にしたがって総合的に判断される(balancing test):

(1) the purpose and character of the use, including whether such use is of a commercial nature or is for nonprofit educational purposes;
(2) the nature of the copyrighted work;
(3) the amount and substantiality of the portion used in relation to the copyrighted work as a whole; and
(4) the effect of the use upon the potential market for or value of the copyrighted work.

(1)使用目的(2)著作物の性質(3)利用の程度(4)市場への影響である。日本でもフェアユースを導入しようという議論が進んでいるが、Copy & Copyright Diaryさんでその内容が紹介されている。

日本版フェアユースの範囲 – Copy & Copyright Diary

日経の記事では、フェアユースとして認められるものとして

1. 広告で利用する写真にたまたま美術品などが写り込んでいるケース
2. 合法的な利用に必要なケース(CDをインターネット配信する場合のサーバーでの楽曲複製など)
3. 本来の利用でない複製(言語分析のために小説を複写するなど)

があげられている。

これらは技術的理由・取引費用の観点で正当化できる。配信のための複製は著作権者にとっても必要だし、一部に入り込んでしまう程度の二次利用は取引費用がなければ簡単に合意できるはずだが、現実には交渉費用・裁判費用・支払いに伴う費用などにより難しい。よって、当該著作物の市場価値への影響がなければ(=取引費用がなかったとしても極めて少額の使用料になる)、最初から利用可能としておくことが望ましい

朝日の記事では、フェアユースとして認められないものとして

* 社内会議で配るために書籍の一部をコピーすること
* 他人の著作物を利用して新たな創作をするパロディー

の2つが例としてあげられている。

逆にフェアユースにならない例として社内利用やパロディーが挙げられている。おそらく商用利用は基本的にアウトということだろうが、いずれも程度によるだろう。小規模の企業内利用で元の作品の収益が悪化するとは考えられない。逆に商用目的のパロディであれば交渉費用は複製の規模に対して比較的小さいのでフェアユースにならないのも妥当に思える。

ただし、アメリカにおけるフェアユースは一般規定であり認めらるもの・認められないものを列挙するというのは趣旨が異なることには注意する必要がある。あくまで個別ケースについて四つの観点からチェックするという構造だ。日本版フェアユースという言葉遣いは(同様の構成をとらないのなら)誤解を招くように思う。

本題とは関係ないがちょっと気になった部分がある:

法制問題小委員会では日本版フェアユースの導入について検討を行っているが、秋より具体的な検討は権利制限の一般規定ワーキングチームで行われていた。ワーキングチームは非公開で行われていたので、そこでの議論は全く分からなかった。

フェアユースに関する議論は非公開のようだ。朝日新聞と日経新聞がその内容を報じているが、それもインターネット上には存在しない。著作権に関する議論がこれほど閉鎖的でいいのだろうか。

フェアユースについてはこれからも注目していきたい。

NYT有料化を擁護する

ライブドアが始めた新しいメディアというTech Waveでニューヨーク・タイムズの一部有料化が取り上げられている。

Tech Wave : ニューヨーク・タイムズ、いよいよ有料化へ。絶対失敗するだろうけど

「絶対失敗するだろう」という過激なタイトルになっているが何を持って失敗とするのだろう(ht @Lingualina)。それを定義しなければこの予想には意味がない。例えば、現在収益が上がっていなければ赤字が減るだけでも成功だろう。

また、一部有料化というなら、The Wall Street JournalもFinancial Timesも既に導入している。WSJもFTも一部有料化を続けており、これは一部有料モデルが少なくとも彼らにとっては全部無料モデルよりも利益になるということだろう。多くの新聞社が経営難で廃刊になる中でこれは成功といえる。同じことがNYTには当てはまらないとする根拠はなんだろうか

で、なぜ僕が新聞の有料化が失敗すると思うのかというと、時代の流れをまったく無視しているから。ほかのネット上のサービスはテクノロジーを使ってものす ごいスピードでその価値を高めているのに、新聞は何の改良も加えずにただ読みづらくしようとしている。読むのに手間をかけようとしている。そんなの受け入 れられるはずがない。

挙げられている理由はどれもNYTにだけ当てはまるものではない。ほかのネット上のサービスがテクノロジーの利用で価値を高めているのはそうかもしれないが、NYTの記事のクオリティは日本の新聞社の記事や世にあふれるブログとは比べるまでもなく高い。全てを有料化するならともかく、FT式の一定以上のアクセスに対する課金がうまくいかないとするには時代の流れよりは強い根拠が必要だ。

ちなみにライブドアの田端氏はTechWave開始に際して「良質」のコンテンツを次のように説明している(ht @fukui_dayo)。

極めて斬新な「問題提起」型の記事のほうが、退屈で無難な「模範解答」型の記事よりも、遥かに「良質」だと言えるのが分かるだろう。

もし既存のメディアがこの意味での「良質」な記事に駆逐されるのであればジャーナリズムの将来には懸念を覚える。テクノロジーを利用して利便性という意味での価値を高めようとするのもいいが、まず記事の内容を高めるという発想が必要だ。本当に質の高い記事を社会に提供している人たちがいかにそのコストを回収するかを必死になって考えているのだ。それが難しいことだとしても、ただ「絶対失敗するだろうけど」と評することには賛同できない。費用を下げて収益を求めるのも悪くないが、質を保つためになんとか収益率を高めようとする試みは応援したい

P.S. 若干攻撃的な書き方になってしまったが、これもまた「良質」なのだから許されるだろう。

平沼発言の問題

よくあるが見過ごせない失言なので軽く取り上げておく。

<平沼赳夫氏>蓮舫議員の仕分け批判「元々日本人じゃない」(毎日新聞) – Yahoo!ニュース

平沼氏はあいさつの中で、次世代スーパーコンピューター開発費の仕分けで蓮舫議員が「世界一になる理由があるのか。2位では駄目なのか」と質問したことは「政治家として不謹慎だ」とし、「言いたくないが、言った本人は元々日本人じゃない」と発言。「キャンペーンガールだった女性が帰化して日本の国会議員になって、事業仕分けでそんなことを言っている。そんな政治でいいのか」と続けた。

まず、次世代スーパーコンピュータ開発で世界一になる必要があるかは実質的内容で決めるべきことだ。不謹慎だというのは議論でも何でもない。全ての分野で一位を目指すのは非効率な以上、どこに注力するかをきちんと議論するのが政治家の仕事だ

後半は救いようがない。「言いたくないが」と断れば差別発言が許されるわけではない。むしろ「言いたくないが」などと述べる人はみなその次のセリフをいいたくてしょうがないように見えるのは何故だろう

キャンペーンガールだった帰化女性を選んだのは国民であり、それを可能にしているのは日本の法律だ。それをどうこう言うのは頂けない。私はむしろキャンペーンガールだった女性が帰化して国会議員になったことは、蓮舫議員の行動に対する評価は別にして、それ自体として凄いことだと思う。

平沼氏はパーティー終了後の取材に対し、「差別と取ってもらうと困る。日本の科学技術立国に対し、テレビ受けするセンセーショナルな政治は駄目だということ。彼女は日本国籍を取っており人種差別ではない」と説明した。

元々日本人でないというのは変えようがないこれを論うのが差別でなくて何なのか。口が滑ったのなら訂正なり謝罪なりすればいいだけの話であって、「テレビ受けするセンセーショナルな政治」の問題にすり替える必要はない。

どこかで同じようなことがあったと思えば、以前西和彦氏が同趣旨の発言をしていた。その時のエントリーはこちらだ:「スーパーコンピューターが必要か」。西氏は次のように述べている。

1967年生まれの蓮舫議員は1995年に台湾からの帰化日本人である。1997年に双子の子供を生んだときには、日本の国籍になったにも拘わらず、中国 風の名前をお付けになっている。家庭的には感覚は中国のひとなのであろう。私はそうは思わないけど、日本のスーパーコンピューターをつぶすために、蓮舫議 員のバックは誰で、その生まれた国の意向があるのかなあと思う人もいる。もし、そうだったらビックリだけど・・・。

こちらもまた「私はそうは思わないけど」と断った上で言いたい放題だ。その時に書いたことを引き写しておく。

「私はそうは思わないけど」などという留保つければ、(どんな背景があるかはともかく)正式に日本国籍を取得して、民主選挙で選ばれた国会議員を憶測で非難することが正当化されるわけではない

帰化日本人が議員になることを許容しているのはこれもまた民主主義により正当化されている日本の法律だ。アメリカの外国系の帰化人との比較も行われているが、アメリカで帰化人が子供に自国風の名前をつけることを批判したら人種差別問題だ

このことは蓮舫議員の言動・政治を支持するかとは関係ないし、スーパーコンピュータ開発の是非とも関係ない。問題は、発言内容ではなく、発言した人間の出自・立場で発言を判断し・貶めようとすることだ。西氏の文章について書いたことがまるっきり当てはまる。

議論において、発言内容それ自体(「スパコンで世界一になる意味はあるのか?」)に反論するのではなく、発言者(蓮舫参議院議員)の物言い・出自を批判するというのは極めて不健全なことだ