motorsavederby.co.uk

GBSの課題

あまり日本では見かけないGoogle Book Settlement (GBS)の記事があったので個人的なコメントでも。

マイクロソフト、アマゾンが猛反発 グーグルの書籍デジタル化問題、米公聴会で結論出ず JBpress(日本ビジネスプレス)

いくつかの問題点が指摘されている。

(1)世界中の作家からの明確な承諾が得られないまま、グーグルが書籍をデジタル化し、それを公開してしまうという問題

これは著作権の国際的調和とアメリカにおけるクラスアクション制度の奇妙な重なりによって生じる。アメリカの外で生じた著作物も、アメリカ国内で保護されるが、これは当然アメリカの著作権法による。例えばフェアユースなんかも適用されるし、訴訟になればクラスアクションの対象にもなる。よってグーグルは国外の作家をまとめてクラスとして和解することができることになる。

(2)作家などの権利保有者の行方が分からなくなっているいわゆる “孤児書籍” についても、グーグルが勝手に公開してしまうという問題

孤児書籍(Orphan Works)とは著作権が存在しているにも関わらず著作権者が発見できないような著作物のことだ。著作権者に連絡が取れなければ二次利用することもできない。

但し、このような著作物が公開されることは基本的には望ましいことだ。書籍自体はグーグルがスキャンしていることからも分かるように提携している(大学の)図書館に存在しており、公開されて困るという類の話ではない。より広く公開されることはプラスだ。

問題は、そこで生じる社会的便益を誰が得るかということだ。権利者が見つからない以上、便益はグーグルと和解の一環として設立されるBook Rights Registryで山分けされることになる。しかし、デジタル化を行うGoogleはともかく、他の作家が孤児書籍からの収益を得る理由はない。これはクラスアクションを使ってGoogleと作家協会(Author’s Guild)が孤児書籍を乱用するようなもので正当性を欠く。Googleがこのような利益を作家協会に供与することで、独占的な形態を確保しているように見える。

そもそも連絡を取ることので出来ない主体をどうクラスとして定義するかという問題もあり、むしろ立法的に対処することの方が望ましいだろう。

他にも、グーグルとBBRとの利益の分配方式など検討事項は多いが、書籍、特に絶版本や孤児書籍、がネットや図書館で簡単に検索できるようになることは素晴らしいことであり、これがうまく解決されることが望まれる

オンラインコンテンツへお金を払うか

Nielsenによるオンラインのコンテンツにお金を払っている人や払う意思のある人の割合の調査:

Changing Models: A Global Perspective on Paying for Content Online | Nielsen Wire

青い部分が既にそのコンテンツにお金を払っている人の割合、オレンジの部分が払っても良いと考えている人の割合だ。

Online content for which consumers are most likely to pay—or have already paid—are those they normally pay for offline, including theatrical movies, music, games and select videos such as current television shows. These tend to be professionally produced at comparatively high costs.

消費者が対価を支払う可能性が高いのはオフラインで通常対価を払って消費するような生産コストの高いコンテンツとのこと。但し、このグラフで多くの人がゼロより大きな価格を払う(払っている)ことはその(オンライン)コンテンツの価値が高いことを意味しないには注意する必要がある。

まず、消費者は必ずしも自分にとってのコンテンツの価値を対価として払うわけではない。払わなくてもいいなら払わないわけだ。だからここで対価を支払う人の少ないコンテンツは価値がないのではなく、単に競争的に供給されているだけということが考えられる。ユーザーが作成するコンテンツはこの類だろう。

またゼロ以上の価格を支払う人が少ないことは支払いが総額として少ないことにもならない。多くの人にタダで配布しても一部の消費者から十分に収益をあげられるならそれで構わない。消費者でなく別のルートで利益をあげてもいい。利用者が多いほど価値が上がるタイプのコンテンツであれば、このような戦略を取るのが自然だ。個人のプロモーションでも広告でもよい。

Nielsen asked more than 27,000 consumers across 52 countries

しかし、多くの人に聞くのはいいがこの手の調査を52ヶ国分まとめて数字にしてもあまり役に立たない気もする。

環境の費用便益分析

環境に関する政策の費用便益分析についての記事:

The economics of ecosystems / The Christian Science Monitor

国連環境計画(UNEP)のThe Economics of Ecosystems and Biodiversity reportを紹介している。

As such, it belongs to a broader, ongoing effort to correct what ecological economists say is a failure in most cost-benefit analyses to adequately account for the very real value of living systems.

レポートの目的は費用便益分析において生態系の本当の価値をきちんと考慮するようにすることだという。あくまで正確な計算するべきだということであって、計算しなくていいという話ではないことには注意が必要だ。

The trick is ensuring that the analysis is sufficiently rigorous — that it accounts for all services provided by a forest, both as paper and as living trees, and that it includes both short- and long-term outcomes.

要点は、分析を十分に厳密にすることだ。森林であれば、それがもたらすあらゆる便益(と費用)をきちんとカウントする。

[…] some environmental problems can, in fact, be illuminated by a sufficiently nuanced cost-benefit analysis, while others — such as environmental justice issues — clearly can’t.

費用便益分析へのお決まりの批判も取り上げられている。金銭で表せない価値もあるというものだ。しかし、生命価値は統計的なそれであれば推定できるし、どうしても金銭価値で表せない(したくないなら)数値化するだけで残しておくこともできる。一人助けるのにいくらかかるを計算するだけでも意味がある。

まあ大した記事ではないのだけど、The Christian Science Monitorは教会が発行しているが布教を目的とはせず、昔からネットの活用が早いことで有名であるなど面白い新聞だ。現在は日曜版しか紙媒体で発行しておらず基本的にオンライン新聞となっている。

「ツイッター7つの仮説」について

Twitterの話題で■グロービス堀義人ブログ: ■ツイッター7つの仮説とそれに対する堀さんがtwitterに関する面白い記事を書いてたので突っ込みなど|堀江貴文オフィシャルブログ「六本木で働いていた元社長のアメブロ」が面白かったのでここでも同じフォーマットでやってみよう。

仮説1:ITの進化に伴い、議論の質が下がる。

ニフティの時代から議論の質が下がったという話。私はニフティにあまりアクセスしたことがないので直接の比較はできないことを先に断っておく。質をどう定義するかにもよるが、平均的な「質」は下がるだろう。では堀さんが問題にされているであろうトップレベルでの質はどうか。

これは何についての議論かによるだろう。話題が明確に決まっている場合、その内容によって分けられている空間のほうが優位だ。極端な話、特定の狭い分野で質の高い議論が必要なら、その分野の研究者を集めて会議室にでも閉じ込めておけば良い。Twitterなどという誰が聞いてるかもわからない代物を使う必要はない。逆に話題が設定されていない場合、看板で仕切られた空間は大変都合が悪い。そのようなケースではTwitterが議論の質を上げる(例えばNPOの経営話はNPOの人だけが集まって議論するよりもいろいろな人が目にするTwitterでやったほうが効果的だろう)。

Twitterのハッシュタグはある意味いいとこ取りを狙った仕組みとも言えるが、管理者の不在は多人数での議論を困難にする。ニフティであればシスオペがフォーラムを適切に管理する(金銭を含めた)インセンティブを持っているが、ハッシュタグの場合は何のコントロールもない。通常のTwitter上のやり取りであれば、あくまで人間(アカウント)ベースなのでそこを押さえていれば生産的な議論が可能だが、ハッシュタグの場合はトピックベースなので難しいだろう。

結論としては、技術によってどのような議論が効率的に行えるかは異なるのであって、単純に上がる下がるという話ではないと考えられる。

仮説2:一方では、訴求力・リアルタイム性が抜群に上がる。ツイッター(SNS)、ブログ、動画などの組み合わせにより、よりパワフルな発信力を個人が持つようになる。

発言力は聞いてくれる人がいないと意味がない。大きな発言力を持ちうるようになれば、それを活用するために受け手を増やすインセンティブが増す(どんな頑張ったって10人しか聞いてくれないなら大した努力はしないが、1,000人なら努力するかもしれない)。受け手を増やす一番まっとうな方法は価値を提供することで、これは議論の質の向上につながる。Twitterは日本において実名の利用が広がっているという意味でIDにより個人が特定可能なパソコン通信と似ている。

仮説3:知のインプットの時間が減るので、人々は扇動されやすくなる。

これは間違っていると思う。まず、多くの人は時間を最大限に活用して知のインプットをしているわけではない。Twitterで30分使うとして、その代わりに削られるものが知のインプットとは限らない(そもそも一日30分知のインプットをしていない人なんて山ほどいるだろう)。

次に、Twitterを通じて普段目にしない分野の知識を得ることは多い。私はTwitterを始めるまでBI・BOP・社会起業とかいう言葉とは無縁だった(というと驚かれる)。そもそも聞いたことのない事柄に関してインプットするのは難しい。Twitterを含めたソーシャルメディアは検索エンジンやRSSを代替こそしないが、それに並ぶ新しい情報のアグリゲーターとなっている。これは知のインプットそのものだ。

最後に、知識をインプットだけで身につけるのは非効率的ということが挙げられる。アウトプットとインプットを繰り返すことでより効率的な学習が可能だろう。

普段から周りに多彩な興味を持った人がいて議論することができるのであれば(もしくは幅広い知識が不要なら)Twitterのメリットは少ないかもしれない。しかし、大抵の場合そんなことはないので、やはりTwitterは知のインプットにむしろ貢献するように思われる。

仮説4:パーソナルな情報がマスメディアを凌駕する。

凌駕するというよりも、マスメディアという概念が分解すると言った方がいいだろうか。

今後は、「日経新聞によると」よりも、「○○さんによると」の方が信憑性を持つ時代が来るであろう。

既にオンラインで記事を読むときには、どのサイトで読んでいるかよりも誰が書いているかを調べるようになっている。ちょっと検索すれば良いだけなので簡単だ。流通段階を押さえていない限り、旧来のビジネスモデルは維持出きない。

仮説5:コミュニケーション依存症(ジャンキー)が増え、物理的交流の機会が減る。

これは間違っている(タイガー・ウッズがセックス依存症というのと同じぐらい間違っている)。「Twitterでは「つぶやく」な」で述べたようにTwitterの特徴は新しいコネクションを作ることだ。物理的交流をすることの価値は、交流する相手が増えることで上がる(多くのネットや携帯を通じたコミュニケーションはそもそも物理的交流を増やすために存在している)。もちろん物理的交流なしに同等のコミュニケーションができるなら必要ないかもしれないが、現状ではそうではない。ましてや140文字のTwitterでは無理だ。私はTwitterでやり取りする人と会ってみたいと思う。Twitterがなければ会いようがないのでこれは物理的交流の増加だ。

仮説6:ツイッターのフォロワーは、共感、情報、知恵などの全人格的な面白み(エンターテインメント性)を求める。

YesでありNoだ。Twitterでどのような面白みを提供するかは本人の選択だ。特定のニュースを提供してくれる人は貴重だし、極端な話ボットだって面白いものは面白い。しかし、他のチャンネルに比べて全人格的な面白みを発信するのに向いている面はあり、そのような利用をする・期待する人が多いのも事実だろう。

仮説7:最終的には、ツイッターも駆逐される。

Twitterが本当に生き残るためには、完全にプラットフォーム化する必要があるだろうが、それでも永遠に続くことはない。問題はどのくらい存続するかと最終的に社会や後続の技術にどんな影響を残すかだ。

衰退産業が持ち出す文化議論

今日、仲俣暁生さん(@solar1964)が「そもそも出版文化って、文化なんだろうか」と発言されていた。しかし、出版業界の人間でもない私にとって出版が文化かどうか自体にはあまり興味がない。単に「文化」の定義によって決まるだけの話で、出版業に特別な文化的要素があるのなら銀行にも医療にも、当然アカデミアにもある(そして保護したいようなものでもない)。それなりに閉鎖的な業界ならどこでも「文化」と呼びうるものがあるだろう。消費者にとっては重要なのはその「文化」が何を生み出すかであって、「文化」そのものではない。

では何故今になって出版業界は文化について論じ始めたのか。これは業界を保護してもらう口実だ。それも、「出版」ではなく「業界」であることがポイントだ。「出版」を守るためなら出版「業界」を守る必要はない。日本の農業や林業を守るために既存の業界における「文化」を保護する必要がないのと同じだ。だから、農業・林業保護の議論に株式会社導入は表立って出てこない。

文化そのものである著作物の生産やその流通を政府が支援する理由はいくらでもある。最も大きいのは著作物の公共財的性質であり、著作権は(本来期間を限定された)独占権を与えることで著作者にインセンティブを与え、出版に関わる人々はその権利から生じる利益の一部を得る。しかし、今出版業界に起きているのは競争相手の出現だ。そして著作者にとってはダウンストリームで競争が起きることは取り分が増えるという意味で望ましい(出版社がKindleとiPadが競争するといいと思うのと同じだ)。

一産業が自分たちのやっていることは文化だと言い出す時、その業界は回復の見込みがない程に衰退へと向かっている。重要なのはその産業が担っていた機能が社会に提供されているかであって、以前その機能を果たしていた業界が存続しているかではない。既存企業を保護することは技術変化に対応して新しい価値を提供する新規企業を潰すことでもあり、業界が「文化」と言う言葉を使った時は特別に慎重になる必要がある。