「自分が悪い」の何が悪いのか

どうも最近首を傾げるような記事が増えていて残念なアゴラから:

アゴラ : 自分が悪い 助けてといわない若者 – 原淳二郎(ジャーナリスト)

自分が悪いと考えてしまう若者が増えているという問題(?)が取り上げられている。20代後半の私も「若者」に含まれるだろう(しかしいつから「三十代の若者」などという概念が登場したのだろう)。

現在の不遇な環境、不幸は社会の責任ではないし、まして親の責任でもない。だからいくら困窮しても助けてといえないのだそうだ。30代の若者の現象らしい のだが、日ごろ学生を見ていて同じように感じることがある。

実際、問題に直面する原因の最も大きなものは自分の行動だろう。また、他人のせいにしたところで問題が解決するわけではないので、そういう考え方を持たない方が本人にとってもいいはずだ。

心優しいのか、誰が悪い、社会が悪い、教師が悪いなどといわない。毎日の生活に被害者意識が薄 い。

そしてそれは「心が優しい」からではない。単に、頑張ればもっといい状況にできたという事実認識と、被害者意識を持つより自分のせいだと考えた方が生産的だと知っているだけだろう。このような認識の何が問題なのかよくわからない。

毎日の生活に被害者意識が薄い。私の子どものころは、毎日食うものに困り、親からは家業にこき使われ、何もいいことがなかった。なぜこんなに自分は不幸な のか、と思うと同時に、自分が悪いから不幸なわけではない、周りが悪いのだと考えた。事実社会はまだ貧しかった。家業は二度も倒産した。社会への関心政治 への関心はそのころから生まれた。

確かに、貧しい社会でそういう育ちかたをすれば、社会や親が悪いと考えるのは分かる。しかし、現代の社会はそこまで貧しくないし、そういう環境で育つ人は昔に比べて相当減ったはずだ。

だからテレビがいうところの自分が悪いという若者の論理がよく分からなかった。大不況になってもストライキひとつ起きない。デモもない。ネットでぶつぶつ不平をつぶやくらいだ。

現代社会において、多くの人の成功は自分の努力にかかっている。他の要因もあるが、自分が一番重要な要素だと多くの人が認識しているだけだろう。そしてその認識は基本的に正しい。

もうデモやストだけが社会的表現手段だった時代ではない。ネットなどでいくらでも表現できる。

まさにその通りで、不況でもストライキやデモのような非生産的な行動はしない。そんなことをしなくても「ネットでぶつぶつ不平をつぶやく」だけで、不平を世間に知らせることができるのだから当たり前だろう。不平が社会に流れていくチャンネルが変わったのだ。

日本には彼らが貧しいのは自己責任だという風潮がある。いつからこんな風潮が広まったのかは知らないが、不当に弱者に追いやられた人々が不満の声をあげられない社会をわれわれはいつの間にか作り上げてしまった。

これは風潮というよりも、時代が変わっただけのことだ。個人の努力ではどうにでもならない貧困がはびこる社会では貧しいことは主に社会の問題だが、努力すれば成功できる社会においては貧しいことが一義的には個人の問題となる。日本は大方前者から後者へと移行した。そしてそれは喜ぶべきことだろう。ご自身で指摘されているように、「不満の声」はネットを利用して簡単にあげられる。

もちろん、このことはより個人が努力によって成功できるように仕組みを改善していくことを妨げるものでは全くない。しかし何でもかんでも親のせい、社会のせいと言っている社会には未来がない。勉強ができないのは親や環境のせいだと文句をいっていた子供が成功しているだろうか。

追記:困っている人がそのことを社会に伝えるのは重要だが、本人が自分の問題だと認識していなければ援助しても効果がないとも言えるか。

P.S.

母親から毎月1500万円も贈られながら「知らなかった」人には、貧しくて声もあげられない人たちの心情などとても想像できないことだろう。

結局この一文を言いたかっただけのような気もする。しかしそういう政治家を選んだのは有権者であることも事実だ。

配給のコスト

最近、援助の問題に関するポストが続いたので、前向きな記事も紹介:

Aguanomics: The Cost of Rationing

Rationingというのは配給のことだが別に戦時中だけの言葉ではなく、限られた資源を(価格メカニズム以外で)割り当てることを指す。例えば、水や電気の価格を規制で低く抑えれば、超過需要が発生する。短期的には影響が小さくても、設備投資が減ることで長期的には容量不足が引き起こされる。供給よりも需要が多いということは、財・サービスを価格以外の何らかの基準で割り振る必要があるということであり、Rationingの登場となる。ランダムでも先着順でも政治家への献金のランキング順でもいい。

しかし、(限られた)資源の最も効率的な配分というのは、一番その資源を必要としている人間から順番に割り当てていくことだが、価格メカニズム以外でこれをうまく達成するのは難しい。必要な順といったら多くの人は自分が一番必要としていると答えるだろう。それを確認する方法がないからだ。市場は必要という人間にお金を支払わせることによってこの問題をクリアする。

電力では特に限界費用は極めて高く(1000倍というようなオーダー)、そのまま価格に反映させることが政治的にも困難で適切な投資を担保しにくい。水資源についてもしばしば農業用水が異常に安く設定されている。適切な価格付けがなされていない場合、それで大きな便益を受けているグループが政治力を持っているが多い

Effects of Improving Infrastructure Quality on Business Costs: Evidence from Firm-Level Data

it is found that the total benefit for the economy from eliminating the existing electricity outages ranges from 0.5 to 6 percent of gross domestic product. If all water suspensions are removed, the economy could receive a gain of about 0.5 to 2 percent of gross domestic product.

紹介されているワーキングペーパーによると、調査の対象となったヨーロッパと中央アジア26ヶ国において停電をなくすことによる便益はGDPの0.5から6%にも当たるという。水供給についても0.5から2%の効果が予想されるとのこと。市場を整備し適切に運営することでこれだけの膨大な効果があるのだ。財・サービスを提供するような支援もいいが、制度を作るのを助けることで大きな成果を上げることもできる。この問題は途上国だけに限るものではないが、こういうタイプの支援が増えていくとよいのではないだろうか。

アメリカのボランティア参加

アメリカ人のボランティア参加に関するデータがNYTで紹介されている:

Where Do You Volunteer? – Economix Blog – NYTimes.com

元データはBereau of Labor StatisticsのVolunteering on the rise: September 2008-September 2009だ。人口の26.8%がボランティアに参加しており、これは大体6,340万人ほどになる。2007年から上昇基調だ。不況のせいと考えられるが、参加が増えているのは不況による失業の比較的少ない女性で(注)、男性は横ばいとのこと。

参加しているボランティアの種類はパイチャートになっている:

宗教(Religious)が1/3以上を占めており印象的だ。

Among all volunteers, the demographic group most likely to report that they mainly volunteer for their religious organizations were those without a high school diploma. Among volunteers who didn’t graduate from high school, 47.1 percent say that they mainly volunteer for a religious organization.

宗教をボランティアの対象と選んだ人の割合は高校を卒業していない層で最も高く、なんと47.1%にのぼっている。日本で似たような統計はあるのだろうか。

(注)In a First, Women Surpass Men on U.S. Payrollsによると、史上始めて給与所得者数で女性が男性が上回ったとある。これは男性の方が景気に左右されやすい業種についているということもあるが、男女差が消滅しつつあるのは事実だ。

悪い評判も企業戦略

低価格キャリアのRyanairについての面白い話が紹介されている:

Shafting Your Customer As a Reputational Strategy — Crooked Timber

元になっているのがこちらの「Ryanair near bottom of ‘ethical ranking’ list」という記事だ。

RYANAIR HAS appeared in the bottom 10 of an “ethical ranking” of 581 companies, based on environmental performance, corporate social responsibility and information provided to consumers.

Ryanairは企業の倫理的な指標において下から十番目に入ったという。この指標は環境への影響や企業の社会的責任、消費者への情報公開などから作成されるという。ここまでは別に真新しいことは何もない。

I imagine that Ryanair will respond to this with a press release that marries bluster and belligerence with a certain sense of accomplishment.

The company prides itself not only on being perceived as having no social conscience, but as having a reputation for screwing its customers as systematically and mercilessly as possible.

面白いのはRyanairがこういったランキングで下位に入ることを歓迎するような企業という指摘だ。

But why (if they are right) would a reputation for shafting your customers be a commercial asset for a consumer-oriented business in a relatively competitive sector?

どうして顧客を食い物(?)にするという評判が競争的な市場においてプラスに働くのだろうかと締めくくられている。これは最近よく耳にする社会起業家と対照的だ。どちらも事業としての利益を得る必要があることには違いないが、全く逆のイメージを作り出している。

社会貢献を掲げる企業には何か疑問を覚える一消費者としては次のような理由が思い浮かぶ:

  • 私的な価格が重要な側面では、不必要な経費を使っていないシグナルになる
  • 低価格を実現するために何をやっているかが明らかになることは(例:従来無料であったサービスにチャージする)、逆に低価格化が「不正」な手段の結果ではないと示すことにもなる
  • (これは個人的にはどうでもいいが)他にもbadass的な雰囲気がいいと思う人もいるかもしれない

特に最初の点が重要だろう。企業は基本的に財・サービスの提供で社会に貢献するのであって、消費者が例えば寄付をしたいのであれば直接寄付をしたほうが効率的だ。自分で寄付する先や使用用途を特定できるのだから当然だろう。

例えばStarbucksは今Global Sing-alongというキャンペーンをやっているそうだ:

It’s a love fest!

If you spend $15 at Starbucks, they’ll give you a CD with above song on it (supplies limited!), and donate a dollar to the Global Fund.  It gets more convoluted from there: Go online to the Starbucks love website and draw a cutesy love card to trigger another donation from Starbucks to the Global Fund, this time of 5 cents. Finally, if you upload a video facing your computer camera and singing goofily along to the Beatles classic, Starbucks will toss the GF another nickel.

その内容はというと、スターバックスでCDを買うと$1の寄付が行われるというものだ。さらにサイト上で絵を書いたり、映像をアップロードすれば5¢寄付されるという。

It’s almost enough to make you forget that if you bypassed Starbucks all together and just donated your $15 bucks to the Global Fund you’d be helping…15 times more.

しかし、言うまでもないが、$15最初から寄付すれば$15丸々、援助団体に渡すことができる。CDは手に入らないが、音楽・映像自体はアップロードされている。企業がそのブランドネームを使って援助をPRしているという解釈はできるが、それはビジネスであって慈善活動とは思えない。

皆様はどうお考えでしょうか?

衰退産業が持ち出す文化議論

今日、仲俣暁生さん(@solar1964)が「そもそも出版文化って、文化なんだろうか」と発言されていた。しかし、出版業界の人間でもない私にとって出版が文化かどうか自体にはあまり興味がない。単に「文化」の定義によって決まるだけの話で、出版業に特別な文化的要素があるのなら銀行にも医療にも、当然アカデミアにもある(そして保護したいようなものでもない)。それなりに閉鎖的な業界ならどこでも「文化」と呼びうるものがあるだろう。消費者にとっては重要なのはその「文化」が何を生み出すかであって、「文化」そのものではない。

では何故今になって出版業界は文化について論じ始めたのか。これは業界を保護してもらう口実だ。それも、「出版」ではなく「業界」であることがポイントだ。「出版」を守るためなら出版「業界」を守る必要はない。日本の農業や林業を守るために既存の業界における「文化」を保護する必要がないのと同じだ。だから、農業・林業保護の議論に株式会社導入は表立って出てこない。

文化そのものである著作物の生産やその流通を政府が支援する理由はいくらでもある。最も大きいのは著作物の公共財的性質であり、著作権は(本来期間を限定された)独占権を与えることで著作者にインセンティブを与え、出版に関わる人々はその権利から生じる利益の一部を得る。しかし、今出版業界に起きているのは競争相手の出現だ。そして著作者にとってはダウンストリームで競争が起きることは取り分が増えるという意味で望ましい(出版社がKindleとiPadが競争するといいと思うのと同じだ)。

一産業が自分たちのやっていることは文化だと言い出す時、その業界は回復の見込みがない程に衰退へと向かっている。重要なのはその産業が担っていた機能が社会に提供されているかであって、以前その機能を果たしていた業界が存続しているかではない。既存企業を保護することは技術変化に対応して新しい価値を提供する新規企業を潰すことでもあり、業界が「文化」と言う言葉を使った時は特別に慎重になる必要がある。