就活のやり方

「就活」採用者の視点:「走れ!プロジェクトマネージャー!」

最終的なアドバイスは、

これは、本人のやる気とか、意気込みといった感覚的なものでしかないように思っています。「この会社で働きたい!」「絶対就職する!」といった、強い意志のようなものだと感じています。

ということだがこれはいくら何でも役に立たないだろう。大抵のひとは既にそれほどやる気がなくてもある振りぐらいしている。本当の答えは実はこの最後のアドバイス以外の部分にすべて書いてある。

新卒はポテンシャルで採用するしかないので、卒業校や成績以外に明確なものはないんですよね。

まず卒業校と成績がだけが明確(で確認できる)ものなのだからそこを改善すればよい。もちろん就活間際になってからじゃ遅い。逆に、だからこそ企業にとっては重要な情報なわけだ。

では、もう大学半分終わっている人はどうすべきか:

僕自身、最初に働いた会社は誘われて入社したので、いわゆる就活をしたことがありません。

そう、ネットワーキングで誘ってくれる人を探せばいいのだ。人付き合いが得意でなければ自分でプログラムやウェブサービスを公開したり、ブログを書いたりして名前を売ればいい。ちなみに、著者の大木豊成さんはシンガポール大学を卒業されているそうだが、留学するというのも手だ。選択肢は広がるし、ブランディング上もとても有利だろう。

ちなみに、

例えば僕が携わっている、神田外語学院のグローバルコミュニケーション科の卒業要件はTOEIC700点以上です。これは分かりやすい と思うんですよね。

とあるが、TOEIC700点では実務的には意味がないだろう。TOEICは英語の試験としては簡単過ぎるので満点近くても実際に使えるかは分からない。TOEFLであってもアメリカの大学院で要求するレベルは何とか生きてはいける程度のものだ

英語の資格というのはよく考えると非常に不思議なものだ。どの資格であっても実際に英語を運用できるかについてはさっぱり分からないが、資格がなくとも面接で簡単に分かる。私が採用活動で英語能力を見たいならその場で適当な話題について説明させる(電話でもいい)。

英語の話せる面接官が必要だが英語のできる社員がいない会社に英語の能力が必要なようにも思えない。そうすると英語能力を見るのは英語ができるなら他もできるはずというシグナリングに過ぎなくなる。その場合、英語に力を入れている学校の出身であることはマイナスに働く。なぜなら英語と他の能力の相関が明らかに期待できないからだ。

ミニスカとシグナリング

前回「ミニスカートが悪いのか」に引き続き、ミニスカの話:

ミニスカ論争 – キリンが逆立ちしたピアス

セクシュシャリティを研究されているそうだ。

曽根さんの文章は、主語があいまいで、何をいわんとしているのかがよくわからない。たぶん、フェミニズムをバッシングしたいのだろう。だが、もってまわった言い方をしているので意味がわからない。

とあるが、曽根さんの文章は言っていることがおかしいだけで、別に分かりにくくはない。

曽根さんは、女性がミニスカートをはくのは、男性をセックスに誘うためだと考えているのだろう。そして、そういう女性は性犯罪にあってもしかたがない、と訴えているのだろう。

と解釈されているが、その通りだろう。誰もがそう読んだと思う。

私自身は、意識や深層心理はともかくとして、少なくとも10代のうちにこうした論文アクセスすることができた。それは、「<私>を見ている男性」を見る、ための視座を獲得できたということだ。私は「見られる」という女性の位置にありながら、その視線に抵抗したり、利用したりしようとする、女性の置かれた位置を俯瞰しようとしてきた。要するに、見られながら、見る主体を確立してきたのである。

これは単なるシグナリングの話だろう(但し、私はレイプについてそれがシグナリングの問題だとは考えていない:ミニスカートが悪いのか)。自分が外からどう見られているかを考えること、それを利用することは何も女性に限った話ではない

「<私>を見ている企業の面接官」でもいい。もう勉強していい大学にいって面接官の目を欺いてもいいし、変わったの色のスーツを着ていって抵抗してもいい。

私たちは、なにもない真っ白な状態で、ものごとを「見る」ことはできいない。ミニスカートをはく人に対しても、すでに作られた枠組みを通して見ている。

人間は本当に知りたい情報が見えない場合に観察可能な情報に基づいて推論を行う。男性は相手の女性がどんな人間であるか分からないから、ミニスカートをはいているという情報から推論する。これは善悪の問題ではなく、合理的な行動にすぎない(参照:人種差別の現実)。そして人間は大抵の合理的行動を自然に行う。意図的にしか合理的行動を取れないのは進化論上不利だからだ。

そして、その相手が見ているだろう視線を内面化して、「見られる私」を自分自身で構築する。そして、「その構築された枠組みがある」ことを知ったとき、ものの見方はまた変わる。

そんな大げさなことではないだろう。自分が観察される対象であり、観察可能な自分に関する情報を他人がどう利用するかというのは世の中のほとんどの人が毎日行っていることだ。

そして「その構築された枠組み」というのは誰かが意図的に構築したものではないことにも注意が必要だ。例えば、新卒の学生について企業はほとんど何も知らない。もしある男子学生が大量のピアスをして面接に現れたらどう思うか。他の状況が同じなら採用を控えるだろう。これはピアスをしている男性がどのような人間である可能性が一番高いかを考えれば妥当な戦略だ。別にピアス自体には何も考えを持っていなくても同じだ。

女性がミニスカートをはくことをやめる必要はない。仮に、男性がミニスカートを はく女性に対して欲情すると感じるとしよう。さらには、欲情すると、レイプという行動にでることも仮定しよう。だとすれば、男性が見方を変えればいいので ある。前者は無理だとしても、後者は可能である。

コメント欄でも指摘されているがこれは論理の飛躍だ。「女性がミニスカートはく」ことを止めることも「男性が欲情した時にレイプという行動にでる」のを止めることも共に可能であるなら、後者が必要だというためにはそれなりの根拠が必要だ。妥当な理由は「ミニスカートが悪いのか」で述べたように、後者のほうが圧倒的にコストが低いということだろう。

就職の例で言えば、男子学生が面接にピアスをしていくのを止める必要はない、企業が見方をかえてピアスをしていても学生を採用すべきだと言うようなものだ。「男子学生が面接にピアスをしていく」のを止めることも「企業が見方をかえる」ことも共に可能だ。

一世代では無理かもしれない。でも、時間をかけてでも変えていきたい。そして、すでに少しずつ変わってい る、と私は信じたい。

これは信じるまでもないだろう。職場でのピアスも女性なら問題ない。ミニスカートをセックスに誘うために着用する女性が減っている以上(というかそもそも存在するのか?)、男性がミニスカートをそのためのシグナルとして利用することもなくなっていく。

付録

ただ、男女の場合に複雑なのは女性がセクシャリティを出す場合、それをシグナルではなくスクリーニングの手段として使っていることが多いことだろう。つまり、男性が自分のシグナル、例えば興味をみせるモーション、にどう対応するかを観察することで男性の質を推定するということだ。

この場合男性があるシグナルを観察したときにそれを無視するのは難しい。もしそれがスクリーニングのためのシグナルであった場合積極的に行動しないことは、自分の質が低いことを示してしまうからだ。「ちょっと誘ってみたけど何もしなかったのよ、あきれちゃったー」みたいなのがそれだ(参考:クリーピー)。

逆にこれはいかに「つい」レイプしてしまうかがありえないことかも示している。男性は社会的に拒絶されることを恐れており、つい積極的に行動してしまうことはない(でなければ誘ってみるなんて行動がスクリーニングに使えるわけがない)。ミニスカをみて欲情しレイプしてしまうかもしれないと悩んでいる男性はいないが、家に誘うタイミングを逃したと悩む男性はいくらでもいるだろう。

追記:家庭内暴力のケースについては計算された暴力をどうぞ。

ミニスカートが悪いのか

なんか各所で話題になっているけど、ちょっと前に読んだ他の記事と関連しているので取り上げてみる:

強姦するのが男の性なら去勢するのが自己責任でしょ – フランチェス子の日記

産経新聞の曽根綾子さんのおかしな記事に対するツッコミだ。こちらに本文がタイプされているので少し引用してみる:

太ももの線丸出しの服を着て性犯罪に遭ったと言うのは、女性の側にも責任がある、と言うべきだろう。なぜならその服装は、結果を期待しているからだ。性犯罪は、男性の暴力によるものが断然多いが、「男女同責任だ」と言えるケースがあると認めるのも、ほんとうの男女同権だ。

主張自体は別に真新しいものではない。女性が述べているのが珍しいだけで政治家なんかからはよく聞く話で、簡単に言えば「ミニスカートはいているのが悪い」ということだ。

この議論には致命的な問題がいくつもあるが二つだけ指摘する。まずは、レイプが起こるのは両者の不注意ではなく、一方の明確な意図が必要だということだ。これに同意できない人は男女を逆にして考えれば分かる。

男性がレイプされるシチュエーションを想像するのは難しいが、妻が浮気をしてもうけた子供を自分の子供だと騙されて育ててしまうというのがそれに近い。この話題はしばらく前にこちらで話題になった:

Biologically, cuckoldry is a bigger reproductive harm than rape, so we should expect a similar intensity of inherited emotions about it.

不貞の場合には被害者の男性は自分の遺伝子と関係ない子供に大量の資源を投入してしまい、実際に遺伝子を残すことが困難になる。レイプの場合では自分の遺伝子自体は残るが相手を選べず、妊娠した場合の出産・育児のコストは女性が負担するためその子供や自身の生存確率が大幅に下がる。

どちらも個体として適切に遺伝子を残す可能性を大きく下げる出来事であり、進化心理学的にいって人間はそれに対して同様の強烈な嫌悪感を持つはずだ(注)。実際、歴史上、妻の不貞に対して男性ないし社会は女性を強く責めてきた。また両者ともに、当事者間で合意がなく、一方の恣意的な行動がなければ成立しない点も同じだ。

しかし、夫が忙しくてかまってくれないので「つい」浮気をしてその相手の子供を「つい」生んでしまい「つい」夫の子供と称して育てるなんてことがあるだろうか。女性がミニスカートをはいているから「つい」レイプをしてしまうこともそれと同じだ。「つい」なんてあるわけないし、あったとしても悪いのは「つい」してしまった当事者であって忙しい夫やミニスカートの女性ではない

「ミニスカートはいているのが悪い」と思っている人は当然このケースでも悪いのは男性であって「つい」夫を騙した女性ではないと考えるべきだろう(そうであれば確かに男女対称だろうがそんな世界には住みたくない)。

二つめの問題は「自己責任」という言葉の無意味さだ。「自己責任」というルールが存在するのは、結果を左右する人間に責任を押し付けるのが最も効率的なことだからに過ぎない。しかし、これは結果と行為者とが1対1に対応しない場合には役に立たない。例えば車と自転車が衝突事故を起こしたとしてこれは誰の自己責任なのだろう。どちらも不注意があり、その結果として衝突が起こる。どちらがより多くの責任を追うべきかは「自己責任」というスローガンからは導けない。

仮に男性の意図がなくてもレイプが起こるとしても(!!!)、男性が自制することのコストの方が、女性が服装や生活を制約されることのコストよりも遥かに小さいはずであり、男性が自制することが効率的だ。よって法律や文化もそうなるようになっているほうが社会的に望ましいだろう。もし自制のコストが女性の制約のコストより高い男性がいるならそれは病気だろう。

(注)現代では事後避妊・流産・DNA鑑定などで進化論的な影響は避けられるだろうが、人間の心理はそういう技術がない時代の生物学的優位性に基づいて決定されていると考える。

日本のウェブが残念なのは当然

Twitterがメインの記事だが、もっと広い文脈に該当する:

Twitterとはなんだったのか——「コンテンツ」としての日本Twitterユーザー(後編) – コンテンツ編 – マぜンタとシアん

この記事は「日本のTwitterは残念だったのか?」という問いから始まりました。この「残念」という言い回しは、梅田望夫さんの岡田有花記者によるインタビュー記事のタイトル、「日本のwebは残念」から取ったものです。そこで、まず、「なぜこの記事で、日本のwebは『残念』と呼ばれているのか」について確認しておきましょう。

この日本のウェブが残念だというのは面白い。

クラスタ」の感触は、いうなれば「マイミク」のイメージに近いのでしょう。話題が通じる内部での安心感と閉鎖性、これはイラン大統領選でのTwitterのイメージとは正反対です。「日本のTwitter」もまた、mixi的なもの、ひいては日本文化的なものから袂を分つことができずにいるのです。

さしあたって「日本のTwitterは残念なのか」という命題には、首肯せずにはいられないでしょう。

最近日本語のウェブサイトを見始めたのでこの感覚はよく分かる。しかし、何故残念なのかという問いへの答えが何なのか示されていないように思う(元記事はその後日本のTwitterにおける出来事とコンテントについて解説している)。

ウェブの「クラスタ」感、内部での安心感と閉鎖性といった日本文化的なものを見ると「日本のTwitterが残念である」ということが分かるというが、これは前に「アメリカは実名志向か」で取り上げた「日本人は匿名志向・外国では実名志向」を疑うと同様あまり意味のある考えではない。あることが日本と海外と違う理由を文化の差に求めるのは非生産的だ([latex]x[/latex]と[latex]y[/latex]とで[latex]z[/latex]が違うのは[latex]x[/latex]と[latex]y[/latex]とが違うからだというようなものだ)。

では実際、日本のウェブが残念なのは何故か?これは「アメリカは実名志向か」で指摘した何故アメリカでは実名の使用が多く、日本では匿名が多いのかという理由と全く同じだろう。その時はLinkedInが実名である理由を次のように説明した:

何故LinkedInは実名なのか。それは単に実名でなければ何の意味もないからだ。就職活動に偽名を使うわけないし、偽名の知り合いとコネクションを持 ちたい人もいない。日本ではどうか。そもそもLinkedInのような組織がない。労働市場が硬直的で転職自体が悪いシグナルを送ってしまう。

実名の使用は労働市場が流動的か硬直的かに大きく影響される。流動的な市場においては社内で有名な○○さんになるメリットがない。どうせ一つの会社にいるのはいいとこ3,4年という社会では、社内でコネを作ってもあまり意味がない。逆に重要なのは社外に向けて自分のブランドを売り出すことだ。業界のいろんな場所に名前を売ることだ。フリーランスが多いこともこれに拍車をかける。

しかし、実名を所々で使用するだけでは大したメリットもない。名刺をただ配っているようなものだ。それだけではあまり意味がない。だって知らない人の名刺なんて読まないだろう。では誰の名刺ならローデックスに入れておこうかと思うか。それは重要そうな人だ。名刺を配ることに意味があるためにはそこにある名前に意味がなければならない

これはウェブ上で言えば、自分が重要であることを示すことであり、その一番簡単な方法が他人にはできない有益な活動をすることだ。例えば、オープンソースのソフトウェア開発に参加することは誰にでもできるわけではないので、プログラミングの能力を示すいいシグナルになる。ブログを書くこともそうだろう。

はてなについて、

はてな界隈」での論争に漂う内輪感、閉鎖性はしばしば批判の的となっています。流行りの言葉を使えば「ブログ論壇(笑)」になり果ててしまっている「はてな界隈」を揶揄する言葉が「はてな村」です。

その閉鎖性が問題となっているが、そのようなことはアメリカではほとんど問題にならないことも簡単に説明できる。論争に貢献する人間は自分のプロモーションとしてそうしている場合が多数なため、オーディエンスを限定しようという考えがないからだ。ジャーナリストが内輪にしか受けない記事を書くことはないだろう。

逆に、梅田さんがよいインターネットとしている

ウェブ進化論の中では「総表現社会」という言葉を使っている。高校の50人クラスに2人や3人、ものすごく優れた人がいるよね。そういう人がWebを通じて表に出てくれば、知がいろんなところで共有できるよね、というところまでは書いている。

もまた理想郷ではない。アメリカでは多くの人々が自己を表現しているのは確かだ。しかし、それは別にお花畑のような世界ではなく、単なる自分の市場価値を高めるための仕事だ。

とはいえこういうことをする人がウェブ上にたくさんいるかどうかがウェブが「残念」になるかならないかという点で極めて重要であることは言うまでもないだろう。梅田さんの「日本のwebは残念」で言えば、

今の日本のネット空間では、そういう人が出てくるインセンティブがあまりないわけさ、多くの場合。「アルファブロガー」的なものも、最初のうちにぽーんと 飛び出した人からそんなに変わってないじゃないですか。それが100倍、1000倍になり、すごく厚みをもって、という進展の仕方と違う訳じゃない。

こういった活動が「アルファブロガー」を作る。そしてここでいう「インセンティブ」とは自己表現のそれではなく労働市場の価値を高めるという経済的インセンティブにすぎない

Twitterはいい例だ。アメリカのブロガーであればTwitterを使う最大の理由は読者とのコネクションだ。これはデパートがお客様アンケートを配るのと同じことでカスタマーサポートの一種だ。多くの著名職業ブロガーが人を雇ってTwitterを更新していることを考えればその同質性は明らかではないだろうか。

この解釈は、何故日本のTwitterが「クラスタ」化するのかをも説明する。アメリカでは自分を売り込むためにTwitterを利用していて、別に他人の声を聞いてどうこうしようと思っているわけではない参加者が多いのだ。そういった環境ではほとんどの人に興味のない情報がどんどんTwitterに流され一部の人が散発的に反応する

最後にmixiに関する次の箇所について:

SNS」は「mixi」という、既存の人間関係を効率的に管理するだけのシステムに置き代わりました。

mixiが既存の人間関係を効率的に管理するシステムのいうのは間違いだ。多くの参加者が匿名のmixiは驚くほど非効率なSNSだ。

薬剤師に薬学部が必要なのか

この井上さんの書く記事は議論の土台としては面白い。以前は「医師増員のため、医学部を廃止せよ」に「なぜ資格試験や教育が必要なのか」というコメントを付けた。

今回は薬剤師と薬学部教育に関するトピックで、コメント欄で複数の方が興味深い議論をしているのでそれを合わせて紹介したい(コメント欄という性質上、非常に読みにくく議論も錯綜しがちなのでまとめも兼ねる):

アゴラ : 薬剤師に薬学はいらない 井上晃宏(医師)

井上さんの主張はまあ次のようなものだ:

  • (現在の)薬学部教育は薬剤師養成とは乖離している
  • 研究者なら創薬コースがある
  • 薬理学・製剤学なら本があるので一年もあれば十分

これは前回の医師教育のポストにも当てはまるが、彼の主張には二つほど問題がある。まず、現状の教育水準に問題があることはそれを廃止して他の方法で同じ水準を達成すればいいことを意味しない。現状がよくないのであれば最も自然な対応はそれを改善することだ。もう一つの問題は、彼が試験と学校教育を交換可能なものだと認識していることだ。これはコメント欄におけるap_08さんの指摘がわかりやすい:

アメリカの薬学部学生には、たとえば病院実習があり、朝たびたび、病棟回診(毎日)を医師チームと一緒にします。回診では実際病室を訪れる前に、医学生や 研修医が前日からの患者の経過を報告し、その日の検査や治療のプランを立てるために、ティームで短いディスカッションをします。薬学部学生は、現に投与さ れている薬や、他に何か新しい薬のオプションについて自分の意見を述べたり、指導医から質問されたりします。実習ローテーション中、現場で実際にどのよう に薬が使われ、担当の患者さんが治療にどう反応するか経過を追います。また回診が解散すると、医学生や研修医と医師の病棟オーダーを一緒に考えてアドバイ スをしたり、一緒に文献検索をしたりして、教科書の範囲を超える専門知識やスキルを、実地で身に付けて行きます

学校教育にはできるが、試験と独学では(効率的に)達成できないことが存在する。もし試験ですべての技能をチェックできるのであれば学校はどれも必要ないだろうし、授業があったとしても期末試験一発でいいはずだ。しかし、現実はそうではない。実習のほうが確実に身につくこともあるし、試験では正確に測れないこともある。また試験一回であれば運か実力か判断がつかない。以前、大学の価値は何かというポストで大学教育のシグナリング効果とそれを代替するようなビジネスについて述べたが、現実には大学の重要性は増すばかりだ。もし試験で学校教育が代替できるのであれば、すでにそういったビジネスが非常に時間とお金のかかる大学を脅かしているはずだろう。そうなってはいないという事実が、大学教育という一見非常に非効率にみえる仕組みに代わるものが見つかっていないことを示している。

コメント欄の議論については錯綜しているのでトピック毎に論じたい:

薬剤師の職域

薬剤師の職域を広げるべきだということについてはap_09さんがアメリカの医療現場を挙げて説明している:

アメリカでは薬剤師には薬の適応・投与量から、副作用、医薬品の交差反応、薬の特異反応 (idiosyncratic reaction)に至るまで、実に詳細な知識があります。クリニックと薬局は分離していて、薬剤師さんは個々の患者さんが何の病気で何の薬をどれだけ、 どのぐらいの期間処方されているか、何のアレルギーがあるか、実によく把握しています。医者が現在の薬と交差反応を起こす可能性があったり、投与量を間 違ったり、とにかく何かリスクのある処方を出すと、すぐさまダイレクトに連絡をよこします。

これは妥当だろう。井上さんの現状レベルの薬剤師なら薬学なんて必要ないという意見より、薬剤師のレベルを上げてよりよいサービスを提供できる環境をつくろうという意見のほうが生産的だアメリカの実情をよく知ったうえでよいところを取り入れようという考えでとてもよいものだ。医者がすべてをカバーするのに比べればコスト面でも有利だろう。

医療の競争原理

医療に市場競争を持ち込もうという提案はこの議論の根底にある。最初のほうにkbk7478さんの問題提起がある:

現状の医療費拡大を食い止める最もいい方法は、開業医に対する診療報酬を大幅に削減することです。ただ単に技術料を下げては勤務医に影響を及ぼしますので、技術的に簡便な医療行為に競争原理を導入すべきです。

この発言は疑問が残る。まず医療費拡大の最大の原因は人件費の増大ではなく、医療技術の発展だ。また診療報酬の削減を持ち出すのは二つほど難点がある。一つは、日本の診療報酬は国際的にみて低水準だということだ。もう一つは、診療報酬を削減するという考えは市場原理に真っ向から反していることだ。例えば、地方における医師不足の原因は診療報酬が設定されているため価格メカニズムが働かないことだろう。価格規制がなければ、医師が不足している地域で診療報酬が上がって需給は調整されるはずだ。

また競争原理という言葉の定義もよくわからない。競争自体は完全な独占市場でなければ働いている。この曖昧さがap_09さんの次の発言にも現れている:

‘簡単な医療技術に競争原理を導入’というのは、薄利多売、量をこなしてかどをはしょり、低品質低価格で儲ける者が勝つ、いわば「悪貨が良貨を駆逐する」ということなんでしょうか?まさか違いますよね。

程度の問題はあるが、「なぜ資格試験や教育が必要なのか」にもあるように、医療において完全な自由市場が機能することはない。一つは情報の非対称による「悪化が良貨を駆逐する」という現象だ(これについては、ap_09さんがご自身のブログでも挙げられている例がわかりやすい)。資格制度による質の担保や情報の共有が必要だ。

競争原理の導入についてはarcsineさんも次のように述べているが、

フェアな競争原理というのは最適な医療を適正価格で提供する者が生き残り、そうでないものが淘汰されるという理想的な状況を指す言葉として用いました。

それに対するlocalsgさんの次の指摘は適当だ:

まず、「適正な医療を適正価格で提供するものが生き残り」というこの言葉が成立するためには医療から公定価格を取り払う必要があります。公定価格が存在しているのに上の言葉は成立しないでしょう。ap_09先生がおっしゃっている「どの疾患や外傷でも診療請求の仕方が一律」というのはこのことです。

医療において適切なサービスと価格を定義するのは難しい。そもそも規制なしに機能しない市場であるため、競争的な価格が何かわからない。また、市場がつける価格が市場外の観点からみて不適正だと考えられるがゆえに健康保険制度が存在するともいえる。

市場経済医療が主体となっている典型的な国がアメリカですが、その実情はまさに金持ちは高度医療を安く受けることが出来、貧乏人は最低品質の医療を高い値 段で受けるという状況です。いや、医療自体を受けれないこと、医療を受けることによって破産することも希ではありません。アメリカの破産原因の最も多い理 由が医療なのですよ。だからこそ、オバマ政権では何とかして国民皆保険制度を導入しようとしているのです。

アメリカの現状については「アメリカの健康保険」でも紹介した。アメリカの医療に深刻な問題があることはアメリカに住んだことがあれば誰でも分かるだろう。逆に、実際来てみないとどれほど酷いかは実感できないかもしれない。

なお、医師に関して言えば、医療に市場原理が導入されて困ることはほとんどありません。むしろ、一部の医師からは既に「もう国民皆保険は諦めて、さっさと混合診療に移行した方が楽だろう」という意見も上がっています。

についてもそのとおりで、医療に市場原理が導入されれば医師の給与は上昇する。価格規制が取っ払われるのだから当然だろう。アメリカの医師の給与は日本のそれの数倍だ。ap_09さんのコメントも的確だ:

私は制度の大枠としては、日本は優れていると思っています。医療技術は世界的にも最高レベルなので、医療教育そのものは原則的に良く機能しています。また、ドクターショッピングもしほうだいです。
アメリカもイギリスも、好きに医師や病院を選べる自由はないです。イギリスでは医療費を抑えるために、国の方針で誰がどの程度の検査や治療法を受けられるか制限されています。もっとも、アメリカではお金さえ出せば納得行くまで、文字通り世界最先端・最高峰が可能ですが。

競争原理を導入するには情報の非対称が課題となるが、アメリカでは保険会社が支払いを抑えるために加入者が通える医者に制限を加えることが多い。消費者の選択肢を狭めることで費用を抑えるのだ。企業が社会的に望ましい形で競争するのは、それが彼らの利益になる場合だけだ。政府による適切な運用が難しい分野は市場による運営も難しい

但し、医療において単純な市場原理が働かないことや他の国に比べてましであることは現状でよいことを意味するわけではない。bobby2009さんの次の指摘は世間の考えを代表している:

病院の勤務医もドラッグチェーンストアの薬剤師も十分に足りている状況であれば、そもそも、このような議論など無意味ではないでしょうか。

勤務医の不足や地方の医師不足は診療報酬の設定が不適切なためおきていると思われる。市場を使わない以上、適切な価格の設定は困難ではあるがこれだけ問題が報道されている以上何らかの調整は必要だろう。またドラッグチェーンストアの薬剤師不足も定員の増加や資格の細分化などでまた医療制度全体の問題に立ち入らずとも解決できるだろう。

医療と市場との関係は非常に複雑だ。当事者である医療関係者がこれを説明しても説得力を持ちづらく、もっと医療や経済学を理解したジャーナリズムの活躍が望まれる。とはいえ、医師の方々のこの問題にかける情熱は素晴らしい。彼らは別に社会全体の医療の問題を考える個人的な利害を有しているわけではないのに、複雑な医療市場や健康保険の仕組み、国際的な状況などに精通している。

情報の共有

情報を共有すべきというaoi700aoiさんの指摘は最もだ:

情報の非対称性というヤツですね。
もっと医療に関する情報を、独占しないで、広く提供したらどうでしょう?

これについてap_09さんは次のような提案をしている:

大賛成です。どうやらこれが鍵のような気がします。
1.ネットで医学一般の知識の普及。
2.医師会、学会による登録医の教育、研修、勤務、専門・認定医保持等、医師個人の情報公開
3.病院に患者ー医師双方のための調停サービスを置く。 -たとえば、患者さんが医師に聞きたいけれど、聞きづらいので、代わりに間に立ってもらう。

どれも妥当だ。特に多大な費用がかかるものではない。しかし同時に、localsgさんの次の指摘もまた正しい:

医学の情報というのは別にどこかに秘匿されているわけではありません。医学文献は最新のものであっても一般の方が手に入れることは十分可能です。教科書レベルの話であればちょっと大きな本屋に行けば誰でも購入出来ます(馬鹿高いですが)。

大学の図書館などを利用すれば医学の査読ジャーナルにだって比較的簡単にアクセスできる。

でも問題はそれらを購入したところで、読んでも意味が分からないということです。読むためにはベースの知識が必要だからです。家庭の医学のような本は出 ていますが、これは一般向けに内容をものすごくはしょって書かれています。深いところを書いても理解出来ないからです。専門分野の深いところになると、医 師でもそれを理解出来ないことが多々あります。

専門家が専門家たる所以はここにあり、消費者にとって情報があったとしても理解するのは難しい。

根拠のない治療、例えば風邪における点滴等ですが、「あそこの先生にかかれば風邪でいつでも点滴をしてくれる」という下らない理由でどうにもならないヤブ開業医にかかる患者さんはものすごく多いです。

こういった問題があるのも事実だろう(よく面白半分に挙げられる「Dr 林のこころと脳の相談室」なんていい例だ)。単純な医療に関する情報公開よりも上のap_09さんの提案でいえば2にあたる医師に関する情報公開が重要だろう。これは「なぜ資格試験や教育が必要なのか」でも指摘した評判の効果を高める。あのときは「資格」が必要ないかもしれない理由として挙げたが、資格制度を用いた上でより効率的な競争させる上でも役に立つ。

もちろん、医学に関する知識をより分かりやすい形で提供することは重要だろうが、それだけでは情報の非対称の問題は解決できない。仮に時間をかければある程度理解できたとしても、それだけの資源を投入するのは割に合わない。これは単なる分業であって社会的にも望ましい。localsgさんが情報共有に反対している風に取られているが、別にそうでもないのは次の一文から明らかだろう:

なお、むしろ医学知識や医療制度に関しては私も公開すべきという立場ですし、一般の方が積極的に参加すべきだと思います。

むしろそれで問題が解決するわけじゃないという主張であり、より積極的に情報を共有しようというaoi700aoiさんやap_09さんの考えと排他的なものではない。程度の問題であって、今よりも患者が医療を理解するべきかもしれないが全て理解することを期待するのは無理だし、望ましくもない。

医療業界の問題を議論する資格

localsgさんの

なお、井上氏の議論で最も欠けているのは、「専門家の仕事に対する敬意」です。彼自身の経歴からすると薬剤師としての実務に就いた経験はほぼ皆無のはず で、臨床医として経験は5年未満です。一般的に医師が臨床医として1人前「弱」と言われるまでには卒後10年はかかります。現在の彼は「周囲の一人前の医 師達に支えられてやっと臨床を行っている」レベルのはずです。
その彼が「現状でも、どうしようもない医師はいくらでもいるではありませんか。」だの言っているのをみると、「(どうしようもない医者とは)それはブーメランか?」という感想しか出てこないです。彼は自分のことをよほどの天才だとでも思っているのでしょうか?

という発言についてbobby2009さんの

医療業界の問題を議論する資格として、医者である必要すらありません。時間を割き、行政から医療現場までの問題に関する情報を広く収集し、正しく認識する能力があれば良いという事です。

やsatahiro1さんの

localsg氏は医療従事者でさえも医療問題を識別して考える能力がないのに、ましてや専門外の者が「全体を俯瞰する視野と全体最適な解決策を提案できる能力」を以ってしても、問題解決の糸口を提供できないと言う。

といった批判があがっている。これについては、localsgさんの言い方に棘があることと小さなコメント欄という議論の場が原因だろうが、次の発言にあるように単なる誤解だ:

どうも、議論が拡散しているようですが、そもそも私が言っているのは医療全般についての話ではありません。医学教育を受ける初学者が「これは医師になるために必要、これは医師になるために不要」と言うことの是非を問うているのです。

localsgさんが井上さんのポストについて問題としているのは、医師や薬剤師が持つべき知識・経験についての主張だろう。これはその分野に関する専門的知識がなければ難しいことだ。門外漢である私にはさっぱり分からない。私ができるのはせいぜい制度論だ(もちろん医療制度の専門家でもないが):

医療制度全体論に関して言うならば、必ずしも制度論を語るのに医師である必要はありません。むしろ医師以外の方がまともな意見を持っている場合は多々あります。

制度論ではどれだけの知識を保障するのにどのようなトレーニング・教育・試験が必要であるかは専門家に聞いて、その情報をつかって最適な制度を考える。これは高速道路の便益をはかるときに交通工学の専門家に交通量予測を頼むようなものだろう。